その他 封神二次創作まとめ

完結済み、単発ネタ、ノンカプなどをまとめます。


近未来パロ ▼異世界パロ 単発ネタ ノンカプ




近未来パロ

近未来パロディの楊戩×哪吒の物語です。

本編:全10話 おまけ:2話

▼01 最後の引っ越し

「いいんですか、出ますけれども」
 車掌にそう声を掛けられて、顔を上げた。
「……はい、大丈夫です」

 【01 最後の引っ越し】

 ――待合所のベンチでハッと気がつくと乗るべき列車が目の前に止まっていた。いつの間にか眠っていたらしい。傍に置いていたトランクケースを慌てて手に取り飛び乗った瞬間背後で扉が閉まる。
「はあ……、危なかったぁ……」
 直後、車内で飛び込み乗車を控えるようアナウンスが流れ、苦笑しながらチケットに印字されている番号の席を探す。今回は少し長旅になるので、壁に凭れて眠ることもできるよう、窓際の席を取っておいた。駅で買った弁当でも食べながら気長に楽しむつもりだ。
「あ、すみません」
 まばらかと思っていた車内は意外と混んでいて、立っている人はいないもののほとんど満席だ。そして取っておいた席に辿り着くと、廊下側には赤毛の少年が座っていた。ぼんやりと窓の外を見ている様子の彼に少し申し訳なく思いながら声をかけるとスッと足を引っ込めて通りやすいようにしてくれた。
 小さく礼を言いながらトランクを荷物置きにガタガタと置いて、サッと少年の前を通らせてもらい席に座るとようやくホッとする心地がした。
『ご乗車ありがとうございます、本日はコロニー間特急5401便をご利用いただき、誠にありがとうございます。これよりN04、N10コロニーを経由しまして終点S01コロニーへは5時間後の到着となります、つきましては――……』
 大体1.6万キロの移動だから5時間。そんなものか、と思いながらあくびを噛み殺す。窓の外の景色は鮮やかな森林だったが、アナウンスが途切れるのと同時にパッと暗闇に変わった。
『これより車窓モニターに、かつてS01地点で見られたという"オーロラ"を投影いたします、美しい地球の景色をお楽しみください。また走行開始しばらくは磁波が安定しない為、電子酔いにご注意ください。ご迷惑おかけいたします』
 そして窓だけでなく、壁面天井全てがどこまでも続くような星空の映像に切り替わり、遥か高い(ように見える)位置に美しく壮大な緑色の光の帯が現れ、その幻想的な光景に車内で小さな歓声が上がった。
「わあ……」
「……」
 しばらくは他の乗客と同じようにその景色に見惚れていたが、ふと隣の少年を見ると不快そうに口元を押さえて目を閉じているのが気になった。電子酔いだろうか。こうして隣り合わせたのも何かの縁と鞄から酔い止めを探す。
「酔い止め使いますか?」
「……いい」
「遠慮しないでください、念の為に携帯しているだけで僕には不要なんです」
 本当の事だった。しかし少年は薬が飲めないのだと言って断った。薬が苦手だというタイプにはこれまでも出会った事がある。それなら強要すべき事でもないな、と薬を差し出していた手を引っ込めた。
「気持ちだけ受け取る」
「ふふ、気にしないでください」
 律儀さに笑って少年の顔を見やると、喋って気が紛れたのか先ほどより少し気分がマシになったように見えた。
「よければ何かお話しませんか、なにせこれから5時間もありますから」
「……」
 楊戩だとこちらが名乗れば、その少年は哪吒と答えてくれた。


 この数千年で、地球はどんどん生き物の住めない星になっていった。人々はテクノロジーの開発を進め、やがて自然を100%取り払ったコロニーと呼ばれる人工の巨大都市を世界中に作り、その中で暮らすようになった。
 人工の地面、人工の空、人工の空気、季節、天気。それからは全てが"造られたもの"になった。生まれた時からそれが当たり前の世界で生きてきたものにとって、今コロニーの外側がどうなっているのかなど知る由もない。しかし生き物の住める星では無くなってしまった事だけはきっと確かだ。
「哪吒君……もS01に?」
「ああ。哪吒でいい」
 S01コロニー、この特急の最終到着点。そこはかつて"南極"と呼ばれていた土地らしい。
「じゃあ地球を愛する幸運な仲間だ、君も最後の移住便が取れたんだね」
「……」
「あ、そうとも限らない?」
「別にそれで構わない」
 今この特急に乗っている者の行き先は2つ。N10コロニーで降りて明日発の惑星K08行きのロケットに乗り込むか、S01コロニーまで行き、来年の春に出発する予定の惑星M204行きのロケットに乗るか、だ。
「やっぱり最後だと思うと名残惜しくて」
 S01コロニーは地球最後のコロニーになる。これから経由するN04はこの特急の発車後に、N10は例のロケットの発射後にすべての主電源が落とされる事になっている。それ以外のコロニーは既に長年の老朽化と深刻な資材不足により、維持が不可能になったのだ。今や地球に残されている"生きた土地"はそれが全てになっていた。
 人々は地球が終わっていくことを悟り、十数年という年月をかけて少しずつ他惑星への移住を済ませた。楊戩はそんな中、少しでも生まれ故郷である地球で過ごしたいと移住申請を遅らせ続けて世界中のコロニーを転々とし、とうとうこうして最後のコロニーまでやってきたのである。
「お前は地球が好きか」
「そうだね。空も地面も、人工物しか見た事ないんだけどさ……やっぱり、故郷だから」
 哪吒は「あと一年足らずか」と小さく呟くと視線を上げ、輝く星々の映像を見つめた。
「他の惑星に引っ越しても、空を見上げれば星々の中に地球はある」
「見えたらいいな。惑星M204から地球はすっごく遠いみたいなんだけど」
 S01は今日この最後の特急が到着する事が決まっているので、わざわざ雨には設定されていないだろうとは予想しているものの、念の為に半透明のスマートデバイスを手に取り天気予定.netを開く。そこにはコロニーの管理者たちが入念な計算のもと決めた次の春までの天気予定が分単位で全て開示されているのだ。そこから先の予定は無い。地球最後のコロニーS01も、春に最後のロケットを発射した後は主電源が落とされて地球に取り残される運命だからだ。
「うん、僕たちが到着する15:00から明日まで快晴、満月がよく見えますだって。最後の移住者たちに対する歓迎かな」
 昼ごはんにと買ってあった弁当を鞄から取り出しつつデバイスを胸ポケットに仕舞っていると、横から哪吒の視線を感じた。
「ん……ああ、これ?古臭いかもしれないけど、僕はこういうのが好きでさ」
 近頃は脳内チップと網膜に連動させている生体デバイスが主流で、わざわざこんなハードタイプのデバイスを持ち歩いて使っているのは相当な物好きのみであった。
「昔の人っぽいでしょ」
「……そうだな」
 昔の人は色々と大変だったんだろうな、と呟くと哪吒は続きを促すようにじっと見つめてくる。
「や、自然の中で生きてたら、天気予報だって100%的中するわけじゃないからさ。今は天気も気温も湿度も全て決められたプログラムで管理されてるけど、晴れてると思って洗濯物を干して出かけたら雨が降ってきて……なんて事もあったらしいよ」
「そうか」
 興味があるのか無いのか、視線をふいと外してぼんやりと前を向いた哪吒に首を傾げつつ楊戩は弁当を広げる。引っ越し祝いにとN01で少し奮発して買ってきた弁当には生の野菜なんかが入っていた。当然ながら生の食材は非常に貴重で高価な上、現代ではエネルギーさえ摂れれば味や形などどうでもいいという思考が一般的になっているので、こんな食事は久しぶりだった。
「お昼時だけど、哪吒は何も食べないの?」
「ああ」
 電子酔いをしやすいようだったし、このコロニー間特急に乗っている間は何も食べないつもりなのかもしれない。
「何も感じないけどすごい速さで移動してるんだから、そりゃ磁場も歪むよね」
「……」
「もうしんどくない?」
「ム」
 昔はN01……"北極"からS01(南極)まで、20時間以上も掛かったらしいよ、ほとんど1日だ。信じられる?と楊戩が笑いかけたが、哪吒は相変わらず無表情のままぼんやりしていた。
『これより南半球に差し掛かります。残り2時間26分の旅をごゆっくりお過ごしください。また、車窓モニターをかつての地球のさまざまな風景に切り替えます』
 そうアナウンスがあり、美しいオーロラの景色は海に浮かぶ石造りの街並みに姿を変えた。青々とした波とそこに浮かぶ鮮やかな色彩に、また車内のあちこちから密やかな感嘆の息が漏れた。
「こんな景色なんて見た事無いのに、どうして懐かしいって感じるんだろうなあ……」
 昔の景色を眺めながら生の食材なんかを食べていると、まるでタイムスリップしたような心地になる。
「他の惑星で産まれて地球を知らないこれからの世代の人たちは、こんな景色を見て懐かしいって思うのかな」
「知らん」
 そんな感傷的な質問に対しても哪吒はやはり淡々としていて、楊戩は思わず吹き出した。ララ 「っはは、君ってそういう情緒とかなさそうだね」ララ 「フン」


 何やらアナウンスが流れている気がしてふと目を覚ます。食事を終え、次々と映し出されるかつての地球上の美しい景色に見惚れている間にすっかり眠ってしまったようだった。
『長旅お疲れ様でした、終点S01コロニーです。皆さまお降りください、この特急はこの駅までです。永年のご愛顧誠にありがとうございました。これよりこの特急は車庫に入り――……』
 最後の仕事を終えたコロニー間特急の利用に対するお礼などを繰り返し流している機械アナウンスを寝起きの頭で聞きながら隣を見るともう哪吒は下車してしまったようだった。せっかく隣に乗り合わせて5時間共に過ごしたというのにそっけない。
「よいしょ」
 トランクを荷物置きから下ろしガタガタとホームに出れば、案内板に書かれている駅名の文字以外N01から乗った時と何ら変わりない全く同じデザインの駅だった。5時間の長旅をしてようやく辿り着いたという感慨はゼロだが仕方がない。こんな感覚にも慣れたものだ。楊戩にとってこれは何度目にもなる引越しであった。
「……まあ、とはいえせっかくだから少しS01とやらを観光してみるとするか」
 これから次の春まで暮らすことになる場所なのだから、辺りの事を知っておいて損はない。それにここは地球最後の思い出の地となる。
「実感がないなぁ」
 そんな訳で契約しているコンドミニアム(※家具家電がついているホテルと賃貸の間のような物件)に向かいつつ、適当に遠回りしながら歩いてみることにした。しかし多少の店の位置などが違うだけで、気温も景色も何もかもが同じだ。とても1.6万キロの移動をしてきたとは思えない。
「こういうのを、虚しいって言うのかな」
 歩いても歩いても、どこかに辿り着くような心地はしなかった。異星に移住するタイミングを遅らせ続けてここまで来てしまったのは地球に対する愛かと思っていたが、実際は"何かを変えること"や"新しい日常を始める事"を (いと) っただけなのかもしれないな、と自嘲する。
「寂しいって思ってたけど、他の惑星に移住するのも、そんなに悪くない事なのかも」
 ここはもう、あの映像で見たような美しい地球では無くなってしまったのだから……。いや、しかしそれは生まれた時からか、と考えて楊戩はため息をつく。
 ――何を期待して、僕はここまでやってきたんだろう。
 これからここで暮らす10ヶ月間で、それがわかるのだろうか。ただ流されて、気がつけば移住ロケットに乗り込むことになるのだろうか。
「哪吒か……また会えるかな」

 

▼02 偶然の再会

 元"南極"……S01コロニーに到着した翌日。楊戩はまずこれから暮らす場所の周辺でももっと散策してみよう、と朝から部屋を出た。
「……あれ」
「ム」
「哪吒!」
 すると廊下で見覚えのある赤毛の少年とバッタリ出会 (でくわ) したのだ。

 【02 偶然の再会】

 話を聞くと、少年……哪吒はたまたま楊戩と同じコンドミニアムの部屋を契約していたらしい。なんたる偶然かと楊戩は喜ぶが、対して哪吒は良くも悪くもあまり気にしていないようだった。
「哪吒は今日の晩ご飯はどうするかもう決めてある?よかったら一緒にどうかな」
「なぜだ」
「せっかくこれから1年間お隣さんなんだから、仲良くしようよ」
 いや、正確には10ヶ月くらい?と付け足せば「お隣でもない」と部屋を指差して返される。哪吒の借りた部屋は正確には楊戩の部屋の2つ隣だった。
「この広いコロニー規模で考えたらそんなの誤差だよ、誤差」
「……」
「で、どう?一緒にご飯行くの」
「ああ」
 言い分はよく分からないが、特に断る理由もないと思った哪吒は楊戩の誘いにアッサリ頷いた。
「じゃあ夕方5時頃にまたここで」
「分かった」
 二人はそう約束を交わすと楊戩は散策へ出かけ、哪吒は自室へ帰っていった。


 今まで楊戩が渡り歩いてきた他のコロニーは電源が落とされる前から既に老朽化が進んでいたが、前々から最後のコロニーにすると決められていたこのS01コロニーはまだ比較的きちんと整備がされていた。とはいえこの地球という星自体がもはや深刻な物資不足に侵されて久しい。
「……もう、直せないのかな」
 見上げてよく目を凝らすと人工の空には所々欠けている部分もある。投影部が壊れているだけで穴が空いているわけではなさそうだが。修理する資材がないのか、修理するまでもなく打ち捨てられる予定だという事なのか。
 ――あの壁の向こうは今、寒いのだろうか、暑いのだろうか。そんな事を楊戩はふと考えた。
 その程度の疑問、調べればすぐに分かることだが、こういう"自分自身の中に答えのない事"を考える時間が好きだった。果てなき思考にただ身を委ねているとだんだん意識がぼんやりとしてくる。
「さて、そろそろ約束の時間かな」
 気の向くままに歩き回り、これから暮らす場所の周囲の店や公共施設の位置をなんとなく確認し終えた楊戩は哪吒との待ち合わせへ向かう。地図を確認すれば分かる事でも、こうして自分の足で歩いて目で見て知りたかった。
 こういう楊戩の性格を先に異星移住して行った友人は「懐古主義」だと揶揄(からか)ったが、それで構わないと思った。なんでもかんでも電子で済ませて実際に経験をしないだなんて、単なる業務用ロボットや自由意志の無い自動機械たちと同じだとさえ思う。しかしそんな事を口にすれば揉める事が分かっているので黙っておいたが。


「やあ哪吒、時間ピッタリだね」
「お前こそ」
「何か食べたいものある?」
「食べる物を選ぶことに意味なんかあるのか」
「こういうのは気分が大事なんだよ」
 食事などエネルギーにさえなればいいだろう、と言う哪吒に分かってないなぁ、と返して楊戩はいくつかのレストランをピックアップした。和食、中華、イタリアン、フレンチ……ラインナップは充実している。
「もちろんいつもこんな贅沢はできないよ。でも今日は引っ越しのお祝いってことで」
「別に何も言ってない。お前の好きな店を選べ」
 少し悩んでから楊戩は"中華"を選んだ。とはいえ、もちろん本物ではない。食材も人工物しかまともに手に入らない今、どこのレストランに行こうが出てくるもの自体は同じである。ただ、皿のデザインや店内BGMの雰囲気が"それらしく"されているだけの、雰囲気を楽しむ場所というのが今のレストランというモノであった。
「え、本当にDレーションだけでいいの?」
「充分だ」
 1日に必要なエネルギーを薄茶色の固形にしたパサパサで味気のない"Dレーション"だけを選んだ哪吒に楊戩は眉を顰(しか)めるが、本人がそれで良いと言いきるのであまりしつこく他を勧めはしなかった。食に興味のない者も増えている現在、栄養さえ摂れれば味も食感もどうでもいいという意見も珍しくは無いのだった。また、それはそういうひとつの価値観として、尊重されるべきでもある。
『次のニュースです。先日、新たな移住者たちが無事に到着した惑星G56は人工星という事ですが、安全性や持続性に関しては懸念する声が未だに……』
 店の壁に投影されているテレビでは地球からさほど離れていない場所に作られた人工惑星の事が語られている。あの星を選べば、夜空を見上げれば地球が見えた事だろう。しかし悩んだ末、それは選ばなかった。
 見えていてもどうせ帰れない場所なら、少しでも長く留まれる方法を選んだ。それに、やはり地球に近いという事で人気も高かったので、もし応募していてもどうせ落選していただろうし、とほんの少しの未練を断ち切る。
「ねえ哪吒はどうして最後まで地球に残ったの?」
「……」
「あ……」
 気軽に聞いてしまったが割とセンシティブな話題だったかもしれない、と楊戩はすぐに後悔した。なぜなら、いくら地球が好きでも、もはやこのコロニーで暮らす事で地球らしさを感じられる瞬間など無い。ここにあるのは"終わりを待つ"空気だけだ。楊戩のように"それでも地球が好きだから"というシンプルな答えなら良いが、大体は複雑な事情がある場合が多かった。
「……」
「あの、ごめん、話したくなかったら無理しないで」
 案の定、哪吒は何も答えずに黙り込んでしまった。知り合ったばかりなのに仲良くなれた気がして、調子に乗ってズケズケと質問して、迂闊だったな……と頬を掻きながら楊戩は再び「ごめん」と弱々しく口にした。
『続いては惑星L16に移住した生物研究者の雲中子氏と、現在惑星K02へ移動中である機械学の専門家、太乙氏の星間会議で行われた討論会の様子です』
 少し気まずい沈黙を破るようにテレビニュースから流れてきた音声に哪吒はふと視線を投げた。楊戩もそれにつられて画面に目をやる。
『人口の97%の異星移住が完了し、昨日はN01、N04、N10の電源が落とされ、いよいよ現在地球上で稼働しているコロニーはS01のみとなりましたが……』
 地球の現状説明と共に画面には"移住か、選択死か"という大きな見出しが表示された。
『中には移住を選ばず、電源の落とされたコロニーに残るという決断を選ぶケースも……』
『それはつまり自殺なのでは……』
『慣れ親しんだ地球を離れるという事は……』
『生体細胞を持つ新型アンドロイドと無機物ロボットの違いは一体……』
『そもそも、感情の無い旧式の業務用ロボットたちは私たちの移住の都合でコロニーと共に廃棄され……』
 こういった話題は苦手だ。楊戩は少し気分が悪くなってきたが不意に店にいた他の客がうんざりした様子でチャンネルを変えた。そして店全体を覆っていた重苦しい空気が霧散したのを感じ、楊戩は思わずホッとため息をついた。色々とタイミングが悪かったな……と思いつつ向かいの哪吒を見やると、ただもくもくとDレーションを口に運んでいた。その感情は読み取れない。
「……嫌な話題だね」
「お前は、自ら死を選ぶ者を痛ましいと思うか」
「うーん……そういう訳じゃないんだけど」
 むしろ、それが死を意味するとしても地球に……生まれ育ったコロニーに残りたいという気持ちが理解できるからこそ、こういったニュースを耳にするのが辛いのかもしれない。本当のところは楊戩自身にもあまり分からなかった。
「……いや、どちらかというと、それを選べてしまう芯の強さが羨ましくさえあるのかもしれない」
「その選択は、強さなのか?」
「哪吒は違うって思う?」
「わからん。ただ……」
 楊戩の質問に目線を泳がせた哪吒はしばらく考えた後、ゆっくりと口を開いた。
「ただ、それしか選べなかったのかと思った」
 その言葉に楊戩は首を傾げる。彼はどうしてそんな風に思うのだろうか。まだ関係も浅い上、口数の少ない哪吒の言葉から真意を推し量ることは非常に難しい。
「地球上の居住者には全て住民番号が与えられていて、全員分の異星移住許可証が発行されてるんだよ」
「知っている」
「まあ、希望する星に行けなくて……っていうのは確かにあるのかもね」
 希望する星……。哪吒は小さくそう繰り返してまた静かにレーションを食べた。

 チャンネルの切り替えられたテレビではオーロラに関する特集が組まれている。
「あっ、綺麗だったねオーロラ。実物も見てみたいな」
「ただの電流だ」
「君ってやっぱり情緒がないよね」
「事実だろう」
 楊戩はそっけない哪吒の返事に気を悪くもせずただ笑って、ご飯美味しい?と尋ねてみた。
「ただのレーションだ」
「いつもと違わない?」
「違わない」
「誰かと一緒に食べたら、それだけで美味しくなったりしない?」
「気のせいだ」
「そう、気のせい」
「?」
 誰かと一緒なら、月もより綺麗に見える。それが愛する人なら尚更。そう呟く楊戩に哪吒は心底理解できないという顔をする。 「誰と見ようが月は変わらない」 「確かに月そのものは変わらないんだけど、変わるのは月じゃなくて僕の感じ方」
 それが情緒。そう言われて哪吒は「変だ」と返した。
「ぼくはこうしてお喋りしながら一緒にご飯を楽しめる相手がいて、すごく楽しいんだけど……哪吒は楽しくない?」
「わからん」
 楽しくないといえば嘘になるが、別に楽しいわけでもない。哪吒はただ素直にそう思った。楊戩がいてもいなくても、食事は食事であって、楽しい楽しくないという問題とは無関係である。しかし楊戩はそうでは無いと言う。
「……オレには難しい」
「今はそれでいいよ。でも嫌な気持ちじゃないなら、これからも付き合ってほしいな。僕はいつも誰かと一緒だったんだけど、とうとうひとりでここまで来ちゃったから、哪吒以外に友達がいないんだ」
「寂しいのか」
「少しね。それでもここに残る事は自分で選んだんだから後悔はしてない」
 友達とは直接会えなくても通話なら出来るわけだし、と言って楊戩は遅れて運ばれてきた食事に手をつけた。

   

▼03 人工の世界

 早朝、出かける準備を済ませた楊戩が哪吒の部屋の扉をノックすると、少しの後にいつもと何ら変わりない哪吒が無表情で現れた。
「まだ早いぞ。今日は一体何だ」
「ほらほら準備して、早く出かけるよ」
 約束などした覚えはないがあまりにも当然という口調でそう言われて、やはり特に断る理由のない哪吒は仕方なく着替えて出かけて行くのであった。

 【03 人工の世界】

 今日で楊戩と哪吒がここへ引っ越してきてからちょうど1ヶ月が経つ。天気予定.netに開示されている通り今日からS01コロニーに人工の夏が来たので二人は地区間を移動するレトロなデザインの列車に乗り、D-4地区と呼ばれる場所に設置された"人工ビーチ"へ向かっていた。駅を経由するごとに人が増え、今は通路にも何人か立っている。行き先はきっと皆同じことだろう。
 引っ越しの際に特急で隣同士の席になり、まさかの同じコンドミニアムを契約していた二人は、気が付けばこうして何かと一緒に出かける仲になっていた……というより、楊戩が今日は○○へ行こう、と無理やり連れ出しているだけなのだが。
「……海?」
「うん、海に向かってる」
「海のようなものを投影した場所だろう」
「そんな野暮は言いっこなしだよ」
「毎日ヒマ人だな、お前も」
「哪吒もじゃないか」
 むしろ今このS01コロニーで暮らしている人々はそのほとんどが贅沢なヒマ人なのかもしれない。この地球で残されている"仕事"といえば物資の配送やコロニー内の点検、日用品店や飲食店における給仕や会計作業など。それらは全て旧式の業務用ロボットたちによって充分に担われているし、天気や季節の切り替わりも全てプログラム済みなので、中心部である管制塔にも単純作業をする機械しかいない。
 つまりこのコロニーに暮らす者は皆、観光やリフレッシュ以外にする事がなく、地球で過ごせる最後の日々を噛み締めて生きているだけであった。そして楊戩もこうなる事が分かった上で以前の居住地であるN01では少し意識的に貯蓄をしておいた。S01ではなるべく金に糸目を付けずただ楽しんで過ごそうと決めていたのだ。とはいえもちろん、惑星M204への移住後の生活のこともある程度は考えてある。
「少し前に街の様子を眺めながら絵を描いてる人なんかは見かけたけどね。ああいう"ここでしか出来ないモノ作り"をしている人たち以外はきっとみんな等しくヒマ人だよ」
「なぜオレも一緒に行かねばならん」
「他に誘う友達がいないから?」
「ひとりでも行けるだろう」
「綺麗だねって語りかける相手が欲しいんだ」
「……そうか」
 相変わらず楊戩の求めているところはよく分からなかったが、哪吒はこういったやり取りに慣れてきている自分に気が付いた。
「お前はひとりじゃ何も出来ないんだな」
「そっ、そういうわけじゃないけど!まあそれでいいよ」
 楊戩がパッと哪吒を見ると少し笑っているように見えた。もしかして今の、冗談を言ったのかな?と思ったが確信はない。しかし以前よりは確実に仲良くなれている気がして嬉しかった。

 かつて最も栄えた時期から地球上の総人口が著しく減少し、季節、天気、住処、さらには仕事や資産……生活の全てを完全に把握管理されている現代において、役職による"区別"は存在するものの、人々の上下関係や差別は一切なくなり、それに伴って犯罪や戦争もなくなった。
「世界は平和になったという事か」
「……いや、こんな莫大な建設費と維持費のかかるコロニーが建てられた数なんて総人口のほんの数%だったんだ。そこに入居できたのは当然ごく僅かな富裕層だけだったから、差別されていた人や争いごとは皆コロニーの外に追いやられて、ただ死んでいっただけ……それって平和というより……都合の悪い、臭いものに蓋をしただけにも思えちゃうな、僕は」
「争いが無くなったという結果は同じだろう」
「そう、なのかな。うーん、変な話をしてごめん。こんな景色を見てるとつい感傷的になっちゃうのかも」
「……」
 列車の窓から楊戩はどこか切なげに街を眺めている。ビルの壁やコロニーの壁……あちこちに"景色"が投影されてはいるものの、ここには一粒の砂も一枚の葉っぱも無い。それでも夏の鮮やかな新緑は楊戩の心を元気付けるのに充分だった。
「にしても、そんな富裕層ばかりが寄せ集まって、よく揉め事が起きなかったなと思うよね。マザーによる人類の完全な管理の賜物かな」
 今や世界の全てを一括管理する"マザーコンピュータ"によって全てが"平等に管理される"生活など当たり前すぎて何も思わないが、それが始まったばかりの頃はそうはいかなかっただろう。"周りの人より"お金持ちになりたい。"周りの人より"認められたい……かつてそんな人間が山ほどいたと歴史書には書かれてある。
「そういう自己顕示欲?……って、よくわからないけど、争いごとの火種だったんじゃないかなって」
「あとは単純に貧富の差だろう」
「確かに……。食べるものがなかったら、奪うしか無くなるのかもしれないな」
 これから宇宙に住処が広がるとやがて全ての一括管理が難しくなり、星ごとに豊かさや思想に差が生まれてしまい、ゆくゆくは星間戦争が起きるのではないかという懸念は皆がしているものの、地球が住めない星となってしまう以上、人々はバラバラに宇宙へ旅立つしかなかった。
「ねえ哪吒、宗教って知ってる?」
「知らん」
「神様って呼ばれる自分の信じたい思想の中心人物を決めて、その人の教えに従って生きる事なんだって」
「マザーコンピュータみたいなものか」
「そんな数字的で機械的なものじゃないし、神様は人によっていろいろ存在したんだ」
「そんなあやふやなものに行動や意思決定の主軸を任せるなど、それこそ諍(いさか)いの種にしかならん」
 だよねえ……だから宗教戦争ってものが絶えなかったんだって。古い話だから、詳しくはよくわからないんだけどさ、と楊戩は呟いて遠くに見える巨大な管制塔を指差した。
「昔の人は凄いものを作るよね。アレがこの地球上にたった50個だけ建てられて、それまで"個々"で生きてた地球の全ての生き物たちが完全な管理下に置かれてしまっただなんて」
「よく建設途中で壊されなかったな」
「うーん、これは歴史書には載ってない僕の妄想だけど、危険因子はもしかしたら先に滅ぼされてたのかもしれないね。特に中枢のプログラムを作る人間は当時のAIコンピュータに思考も感情も全て監視されてたとか」
 そういう事の全てが"神"に対する冒涜だとも揉めたらしいよ、と楊戩が哪吒に視線を向ける。哪吒は少し考えた後に混乱した様子で「神とは何なのだ」と溢した。
「知らない。昔の人間の考えはよく分からないよ」
「……ふん」
 二人が取り止めもなくそんな話をしていると列車は静かに停車した。どうやら目的地に着いたらしい。駅を出ると辺りは相変わらず味気ない人工街でしか無かったが、ゾロゾロと人の流れに乗ってしばらく歩けばやがて"海"が見えてきた。
「わあ!すごい……」
 今こうしてS01に残っているのは、いわゆる"懐古趣味"の者か、希望の惑星への移住が叶わず流れ流れてここまで来てしまった者のどちらかが多い。脳直結の生体デバイスを使えばこんな映像も脳で"直接"体験する事ができる時代だが、楊戩を含む懐古趣味の者たちはこんな風に現地へ実際に訪れて景色や音を体感して楽しむ事が好きだった。
「哪吒、これ砂浜だよ」
「知ってる」
 足元には波でゆらゆらと踊る白い砂の一粒一粒が細かく描写されて投影されている。実際に触れることはできないが、そのサラサラとした感触を想像しながら楊戩と哪吒は"海"の上を歩いた。
「こんなにたくさんの水の中に入って泳ぐだなんて事、全く想像できないな」
「溺れるのは苦しいらしい」
「怖いこと言わないでよ」
 カラカラと笑いながらそんな事を話していた時、不意に隣を歩いていた哪吒が突然ガクリと膝を折って地面に手をついた。
「わっ、大丈夫?」
「問題ない」
 楊戩が咄嗟に抱き起こそうとしたが、哪吒はその手を制してすぐに立ち上がると何事も無かったかのように歩き出す。しかし何かに躓いただけかと思ったが、どうもヒョコヒョコと歩きにくそうにしているのが気に掛かった。
「哪吒、ちょっと待って。どこか痛めた?」
「たまに調子の悪い時があるだけだ。気にするな」
「気にするなって、そんな……」
 心配げな楊戩を見て少し調子を確かめるように膝に触れると、哪吒は「もう大丈夫だ」と再び歩き出した。心配が消えたわけではなかったが、気にするなと言われてしまった以上、楊戩は黙ってその後に続いた。
「あ。哪吒!ちょっとストップ」
 人がちょうど少なくなったタイミングを見計らって楊戩はサッとデバイスを取り出し、何枚か海を歩く哪吒の写真を撮った。怒るわけでもなく大人しく撮られていた哪吒は怪訝な顔をする。
「なぜ撮る」
「思い出ってやつさ」
「そんな小さい画面で見るより、実物を見ればいい」
「これも情緒なんだよ。撮られるの嫌い?」
「別にいい」
 他にも写真を撮っている者たちが何人もいる。哪吒はその様子をまじまじと眺めて、やはりよく分からん、と思ったが楊戩が嬉しそうにしているので深く考える気も無くなり黙っておいた。
「……海や川には昔、こんな魚や貝が本当にいて、絶滅しちゃった後もしばらくは魚型のロボットがいたんだって」
「そうか」
「犬や猫、鳥だって……空想上の生き物じゃなかったんだよ」
「……」
「それを模した機械たちさえも、修理する為の資材が足りなくなって、全部壊れてそれっきりになっちゃったらしいけどね」
 この星はもう直せなくなって壊れたまま置き去られる者たちの巨大な棺桶のようにも感じられた。ここに来たばかりの頃にテレビで見かけた"移住か選択死か"という見出しが脳内にふと蘇る。
「なんだか寂しいな、生まれ故郷のこういう姿を目の当たりにするのは」
「全てのモノにやがて終わりは来る」
 そして「お前は感傷的すぎる」と哪吒が呟いた。楊戩は一瞬ムッとして何か言い返そうとしたが、哪吒が微笑んでいたので思わず言葉に詰まった。
「オレといるんだから、もっと楽しそうにしたらどうだ」
 その笑顔にしばらく見惚れた後、楊戩はハッとして反省した。
「そ、そうだよね!ごめん僕、 S01 (ここ) S01に来てからずっとネガティブな事ばっかり……」
「いい。気持ちは理解できる」
「ありがとう。でもそうだよね、いろんな事をもっと楽しむ為にいつも君を誘い出してるのに」
 終わりが来ることが決まっている事を嘆いてばかりいても仕方がない。今は日々、美しいものを見ては「綺麗だね」と言い合える相手が近くにいてくれる事をもっと喜ぶべきだなと楊戩は思った。
「哪吒、その……いつもありがとう」
「ム」
 楊戩がニッコリ笑ったのを見て哪吒はどこかホッとするような気がした。愚痴を聞かされる事は大して苦痛でもないし別に構わないのだが、それよりもそういう話をする時、楊戩の表情が暗く沈んでいくことが嫌だと感じていた。
「また一緒に出かけてくれる?」
 穏やかな楊戩の表情と声音に、哪吒は頷いて返した。

 

▼04 夏祭り

「……この暮らしもあと7ヶ月か」
 自室の壁にかけてある年間カレンダーを見つめながら哪吒はそう独り言を呟いた。窓の外はよく晴れた真夏日だった。

 【04 夏祭り】

 自室でコーヒーを飲んでいた楊戩はS01コロニーのローカル番組を見るともなしに見ながら、次はどこへ哪吒を誘って出かけようかぼんやりと考えていた。そのはずなのだが、ふと気付けば一緒に海へ行った夏の日に不意に見せられたあの笑顔が頭に浮かんでくる。
「……」
 するとテレビから正午を告げるアナウンスが鳴り、ハッとして慌てて思考を取り戻す。このままぼんやりして一日を終えてしまうつもりか、と軽く頬を叩いた。
『S01コロニーでは現在、夏の気候を再現しています。今日から1週間はオーストラリアの風景とともに自然豊かで爽やかな夏をお楽しみください。来週からはアジア圏、タイやベトナムといった国々では有名な建造物が――……』
 その時、楊戩は季節の紹介よりもかつての民族衣装の映像に目を奪われた。自分が着るというより、これらを着ている哪吒を見てみたいなと反射的に思ったのだ。
『夏の最終日には日本の夏祭りをC-8地区にて開催します。最後には全モニターを活用した花火のショーも行います。こちらは当コロニーのどこにいても見られますので、混み合いが苦手な方もご自宅の窓からご覧いただけます』
 夏祭り……それを聞いて楊戩はパッと立ち上がった。なんと都合の良い口実か。哪吒に祭り用と言って服をプレゼントして一緒に行こうと誘ってみよう、と思い立ち颯爽と出かけていくのであった。


 色々な民族衣装が用意されている大型のファッションビルに入れば、思った以上のラインナップに楊戩は戸惑いを隠せなかった。普段それほど衣服に頓着が無い為、このような場所に来るのは初めてだったのである。どこからどう周ればいいものかと悩んでいると、愛想の良い感じの案内ロボが素早く話しかけにきてくれた。
『お探しのジャンルはお決まりですか』
「あ、えっと……アジア系の民族衣装ってありますか」
『はい、もちろんございます。こちらへどうぞ』
 案内された先にあった様々な民族衣装を片っ端から手に取ってみる。自分のものであれば好みの色合いでサイズが合えばそれだけで充分だが、哪吒に贈ると考えればなかなか決められず、店を出る頃にはすっかり陽が沈んでいた。


 そうしていくつかの荷物を抱えた楊戩がコンドミニアムに帰ってくると、2階の外廊下の柵に肘をついて哪吒がこちらを見下ろしていた。
「今日は遅かったな」
 不意に頭上から聞こえてきたその声に驚いて顔を上げた楊戩は哪吒の姿に気がつくとパッと嬉しそうに笑った。
「えっあれ、哪吒!待っててくれたの?」
「お前は誰かと一緒の方が食事が美味くなるんだろう」
「うん、ありがとう……」
 思わぬ言葉につい感動したが、もう辺りは真っ暗な時間だ。普段一緒に晩ご飯を食べる時間よりずっと遅くなってしまっている。
「ごめん、せめて遅くなるって連絡すればよかった」
 慌てて階段を登ると哪吒に「焦らなくていい」と声をかけられる。ほとんど無感情に見える哪吒が以前自分の言った事を覚えていてくれた上に、誰かと一緒に食事をしたいという気持ちを理解して、約束をした訳でもないのにこんな時間まで帰りを待ってくれていたという事がどうしようもなく嬉しくて、待たせてしまった申し訳なさもあるが、つい頬が緩んだ。
「ふう、ただいま」
「何を笑っている」
「だって……何も言わないでも哪吒が僕を待ってくれてたことが嬉しくて」
 哪吒はそれくらいの事でそんなに喜んでお前は大変だな、くらいにしか思わなかったが、やはり楊戩が上機嫌でいるのは悪い気がしない。こういう時は余計な口出しをしないのが一番だと最近は学習していた。
「荷物置いたらすぐ行くから部屋で待ってて!早くご飯にしよう」
「ム」


 哪吒の部屋で揃っていつものレーションを食べながら、楊戩は来月末に開催される日本風の夏祭りに一緒に行かないか、とさっそく提案してみた。
「夏祭り?」
「そう、ラストには花火大会もあるんだって」
「……」
 すると少し考え込むように口を閉ざした哪吒の様子に不安になる。思い返すと今まで「なぜだ」「そんな事は無意味だ」などと言われる事はあっても、結局誘いを断られる事はなかった。しかし、もし少しでも嫌な事があるなら遠慮せずに言って欲しいと思った。
「もしかして人混みは苦手?」
「いや、平気だ」
 哪吒は時々こんな風に会話の中で何かを思い出すように黙り込む瞬間がある。楊戩はその度に詳しく質問したい欲求に駆られるのであったが、まだ出会ったばかりの頃にセンシティブな質問をズケズケとしてしまった事を猛省している為、なかなか踏み込めずにいた。
 平気だと言う言葉をそのまま信じるしかない。そのうち哪吒から何でも話してくれるようになるまで、こちらから踏み込む事はせず信頼を積み重ねようと思った。
「あ、それでさ」
 食事の後、 (おもむろ) に持ってきた袋から先ほど購入した服を取り出し、哪吒に見せる。それは前の留め具が中国風になっているシンプルなマオカラーの白シャツと黒いガウチョパンツだった。いかにも民族衣装といった派手な服もたくさんあったのだが、人の多い場所へ出かける事を考えると、シンプルな方が良いだろうと思ったのだ。
 ……それに、もし気に入ってくれれば日常的に着て欲しいという思惑も少なからずあった。
「これ、哪吒に似合うかなって」
「オレがこれを着るのか?」
「そう。いや?」
 差し出されたそれらを手に取って見ると、黒いパンツはスリットが入っていて、赤い裏地に金糸で蓮柄の刺繍がしてあった。
「楊戩」
「うん?」
「嫌な時は嫌だと言うから、何か提案する度に不安そうに伺いを立てるのはやめろ」
 これを着てその祭りに一緒に行けばいいんだな、と言いながら気恥ずかしいのかふいと顔を逸らして立ち上がり、受け取った服をクローゼットに片付けに行った背中を見つめながら楊戩は「抱きしめたいな……」と思った。
「おい、わかったか」
「あ、うん!」
「いくらしたんだ、服なんか……」
「そんなに高価じゃないから気にしないでよ」
 人造繊維を使った服なら確かに安価でいくらでも手に入るが、柔らかく肌触りの良い天然繊維であれば必然的にヴィンテージという事になり、ただのシャツ一枚でも信じられない価格だったりする。衣服の知識に乏しい哪吒には渡された服がそのどちらであるのかハッキリとは分からなかったが、"そんなに高価じゃない"ようには見えなかった。


 そうして気がつけば夏もあっという間に終わりを迎え、夏祭りの日がやってきた。昼過ぎにいつもより少しだけ着飾った楊戩が哪吒の部屋を訪れるとプレゼントした服を身に纏って待ってくれていた。
「良かった、サイズぴったりだね!」
「ム」
 楊戩は我が物顔で哪吒の部屋のテレビを勝手に点け、夏祭りの会場があるC-8地区の定点カメラの様子を見た。まだ陽は高い時間だが、すでにたくさんの人が訪れているようだ。
「何時くらいに行こうか。花火は7時半から打ち上がるんだって」
「好きに決めろ」
 人々は過ぎ去る最後の夏を惜しむように祭りを楽しんでいる。うずうずしている様子の楊戩の横顔を見て「早く行きたいんじゃないのか」と哪吒は声をかけた。
「えっと……」
「?」
 楊戩は哪吒が心配だった。何時間も人混みで過ごすのはさすがに疲れるのではないかと。嫌な事は嫌だと言う、とは言われたものの本当に我慢していないかどうか、正直まだ半信半疑であった。しかしそれを口にすれば変な気を使うなとまた怒られるに違いない。
「まだちょっと暑そうだから、コーヒーでも一杯飲んでから出発したいな」
「わかった」
 コーヒー淹れてくるね、と自室へ帰って行った楊戩を見送る。哪吒はなんとなく自分に気を遣われた事を感じ取ってはいたが、それを言葉にはしなかった楊戩の気持ちを尊重した。楊戩のああいう性格を嫌っているわけでもない。
「……」
 いや、それどころか本当は好ましくさえ思っている。しかし何故かそれを素直に伝えるのは難しかった。
「哪吒ー、扉開けて欲しい」
「なぜ盆を使わん」
「ミルク入りで良かったよね?」
「ああ」
 二人はそれから他愛ない会話をして、もう少し日が傾くのを待った。


 ピークの時間をズラしたつもりでも列車はそれなりに混み合っていた。扉の近くに並んで立ち、小声で会話をする。
「……何がそんなに楽しいんだ。まだここは会場じゃないぞ」
「哪吒と出かけるのが楽しいんだよ」
「そろそろ飽きるぞ」
 楊戩がおかしそうにクスクス笑うと、哪吒もほんの少し口角を緩めた。こんな時間を悪くないと感じるのは"楽しい"という事なのだろうか、と。
「お祭り楽しみだね」
「……ああ、そうだな」
 目的地に着いた列車から人の波に乗ってゾロゾロと降りる。楊戩ははぐれないように前を歩く哪吒の手を掴もうかと咄嗟に思ったが、なぜかドキドキして躊躇している間に人の波は落ち着いた。哪吒は並んで歩けるほどに道に余裕が出来たというのにまだ後ろにいる楊戩を振り返った。
「楊戩」
「な、なんでもない!早く行こう」
「ム」
 楊戩の様子がおかしいのはもはやいつもの事なので、哪吒も深くは気にしない。気にしていても仕方がないので、最近では全てをそのまま受け流すのがクセのようになっていた。
「哪吒って僕の扱いに慣れてきてるよね?」
「自分で言うのか」
「うう、誰にでもこんなんじゃ無いんだよ」
「挙動不審な自覚がある事に安心した」
「ちょっと酷くない?」
 すると道の先から聞こえてきた"祭囃子(まつりばやし)"に二人は同時に視線を向けた。今回の祭りは映像だけではなく、少しだけだが実際の屋台や 神輿 (みこし) まで用意されていた。人々は地球最後の夏を噛み締めるように祭りを楽しんでいるようだった。


「哪吒、そろそろ移動しようか」
「移動?」
「どこか落ち着いて座れる場所で花火見よう」
「もうそんな時間か」
 厳かな日本風の寺院を映し出した映像の下で振り返った哪吒は妙に大人びて見えて、楊戩は思わず「ストップ!」と大きな声を出して写真を撮った。周囲の視線が少し集まったので哪吒は気まずそうに「早くしろ」と言いながらも言われた通りじっとしていてくれる。
「ごめんごめん、あんまり良い構図だったから」
「だから目で見ておけと言っているだろう」
「後で見返したいんだよ」
 祭りの会場から駅を挟んで反対側に行けば人は途端に少なくなった。楊戩は屋上に出られそうな建物を見つけて「入っちゃおうか」とイタズラに笑う。
「好きにしろ」
 仕方ないな、というように呆れながらもなんとなく機嫌が良さそうな哪吒に嬉しくなる。二人が屋上に出れば他にも同じ事を考えた者がチラホラいた。並んで柵に凭れられる位置を見つけて楊戩は哪吒を手招きする。
「ほら、ここで見よう」
「ム」
 楊戩の隣に来た哪吒が柵に手を乗せて空を見上げるとちょうど光の粒がヒラヒラと舞い上がった。
「あ、上がった」
 そしてコロニー中の床に響くようなドンという低い衝撃音と共に空が鮮やかに彩られ、高い位置からパラパラと火花の散る音が落ちてくる。二人は何か話す事も忘れてしばしその光景に見入っていた。
「……」
 楊戩はふと哪吒の反応が気になったものの、鑑賞の邪魔はしたくなかったので目線だけでチラリとその横顔を盗み見た。またパッと空が明るくなり、哪吒の真っ黒な瞳が花火の鮮やかな色彩をキラキラと反射して輝いている。その様子がどうしようもなく綺麗だと思った。
「……綺麗だ」
 そして勝手にこぼれ落ちた言葉にハッと慌てて手で口を押さえる。しかし哪吒はそれを花火に対する感想だと思ったようで平然と「そうだな」と応えた。
「あ、う、うんそうだよね」
「?」
 哪吒は勝手にバタバタしている楊戩を見て、やはり挙動不審だ、と内心思った。

 

▼05 やがて失われていくもの

 今日は一日中ずっと雨の予定なので、楊戩はコンドミニアムの窓のそばに椅子を置き、何をするでもなく灰色の空を見上げてただぼんやりとしていた。
 ――ここに来てから、もう4ヶ月も経ったのか。
 夏祭りが終わり、コロニーの季節は秋に変わっていた。最後の思い出をしっかり胸に刻みつけようと思っているハズなのに、気が付けば時は経ってしまっているし、思い出はなんとなくぼんやりしていく。

【05 やがて失われていくもの】

 夏祭りで撮った写真を見ながら次はどこに行こうかな、と考えているとどこからかガタガタッと音が聞こえた。哪吒の部屋の方向だったので、何事もなければそれで良いと思いながら立ち上がり様子を見に行くことにする。
「哪吒、いる?」
 扉の前で声をかけると「開いてる」と返事があった。
「何か大きめの物音がしたから、もしかして何かあったかなと思って」
 部屋に入ると哪吒は机に手をついていた。
「哪吒?大丈夫?」
「少しよろけただけだ」
「座る?」
 楊戩が椅子を引くと哪吒は素直にそこへ座った。支えようと手を伸ばすが「心配するな」と制される。
「調子悪い?」
「雨のせいだ。オレの事はいい。何か用か」
「いや、用を決めてから会いに来るつもりだったんだけど、まだ決まってないから用は無いよ」
「相変わらず変なやつだな」
「哪吒限定でね」
「そういうことにしておく」
 まだ用が無いと言いながらも帰る気はなさそうで、当然のように向かい側に座った楊戩に哪吒も何も言わない。別に用がなくても、話す事がなくても、ここに居たいならそれが理由になるので結局は好きにすればいいと思った。
「紅葉には興味はあるか」
「ある。行こう」
「落ち着け」
 夏祭りの会場にもなっていたC-8地区は一部が少し高台になっていて、コロニーの様子が見渡せる景色の良いポイントだった。街全体が紅葉の景色に切り替わっている今、どこを歩いてもそれなりに綺麗ではあるが、意識的に"見に行く"となればあそこだろうと哪吒が言った。
「え、もしかして一緒に出かける先の候補を考えてくれてたの?」
「……大袈裟に嬉しそうにするな」
 らしくない事をしたな、とそっけなく視線を逸らす哪吒とは対照的に楊戩は前のめりで「いつ行く?」とデバイスを取り出し今後の天気予定を確認する。
「明後日は心地良い秋晴れだって、都合どう?」
「少し用があるが、午後からは空いている」
「じゃ決まり!」
 考えてくれてありがとう、と言われて哪吒はなぜ礼を言われるのか不思議に思ったが、紅葉の情報を見た時にまっさきに楊戩の顔が浮かんだ事やどこに行けば喜ぶかと考えた事を思い出した。きっと楊戩はそういった全てに礼を言ったのだろうと考える。
「……いつもお前がしている事だ」
 その返事に楊戩は嬉しそうに笑った。

 二日後の昼過ぎ、楊戩は自室で哪吒が来るのを待っていた。一体"用"とはなんなのか、気にならないと言えば嘘になるが気にしていないフリをしていた。哪吒にだって予定くらいあるだろう。そう、例えば……と考えてみるが何一つ思いつかず、机に突っ伏す。
「うう……用って、なんだろう……」
 その時、無遠慮にガチャリと扉が開かれて哪吒が現れた。鍵は開けておくから、用が済んだら来てと楊戩が事前に伝えてあったのである。
「どうした」
「どうもしない」
「何を拗ねてる」
「拗ねてないよ」
 そう言いながら、なかなか顔を上げない楊戩に哪吒は首を傾げた。何かあったのかと思い、出かけるのはやめるか?と聞くも首を振るだけだ。楊戩は「用って何だったんだい」という言葉が喉元まで出かかっているのを抑え込んでいるのであった。
 哪吒と他愛ない会話ならたくさんしてきた。くだらない事を言い合ったり、お互いの考え方の違いを話し合ったりもできる仲になった。しかし、まだ"哪吒自身の事"については深入りできない壁があるように感じていた。
「……楊戩?」
 もちろん楊戩も自分の身に関する全ての事を哪吒に話しているわけでは無いし、それは当たり前だ。しかし、友人関係や今まで暮らしてきたコロニー、経験してきた仕事……そういう、わざわざ開示するようなレベルではないモノでも、哪吒の事なら知りたいと思う自分がいた。
 聞けば答えてくれるかもしれないが、そんな事まで知りたがるなど立派なストーカーではないか。その自覚があるからこそ、軽いノリで「いらっしゃい、用ってなんだったの?」と第一声で聞けなかった。もはやそれが全てである。
「いいんだ、気にしないで。さあ出かけようか」
 なんとなくガックリと肩を落として見える背中にいったい何なんだと言いたくはなったが、紅葉を見ればそのうち機嫌も治るだろう、と哪吒は情緒が安定しない楊戩の相手などすっかり慣れたものだった。

   楊戩は列車を待つ駅のホームで自動販売機からレーションを二つ購入し、移動しながらご飯にしようと言った。
「あ、食べたら酔ったりする?」
 超高速移動をするコロニー間特急と、このコロニー内で走っている地区移動用の列車は仕組みが違うので酔い方も違う。こちらの方がむしろガタガタと揺れる感じはあるのだが哪吒は一度も酔った様子が無かったので平気かなと思いつつ、楊戩は一応確認した。
「大丈夫だ」
「なら良かった。窓から景色を見つつ食べよう」
「それも"情緒"か」
「そう。分かる?」
 ホームに滑り込んできた列車に並んで乗り込みながら哪吒は少し考えて、向かい合った窓際の席に腰掛けながら事もなく返す。
「情緒とやらはいまだに分からんが、お前の言いそうな事は分かる」
 楊戩はその向かいに座りながら「僕ってそんなに単純かな……」と呟きつつも嬉しそうにレーションをひとつ差し出す。
「いつか哪吒も、僕と一緒じゃないと食事が味気ないなって思うようになるから」
 味の感じ方が変わるとは到底思えなかったが、食事といえば楊戩とセットという感覚には既になっている。しかし"こういう事"を口にすると妙に楊戩が嬉しそうにする事が慣れなくて哪吒は黙って渡されたレーションを口に含んだ。
 やはりいつもより美味しい……などという事は無いが、この会話や今見えてる景色の全てが、いつかふとした瞬間に脳裏に浮かぶ思い出のひとつになるような気はした。

 夏祭りぶりにC-8地区に到着した二人は景色の良い場所を探して歩いた。
「調子が大丈夫そうなら、少し昇ってみようか」
「ああ」
 長い階段を見つけて楊戩はその先を指差した。この上はちょっとした休憩所のようになっていてベンチがあるはずだ。花火を見る場所を探していた時に調べておいたのだが、人が多そうだと避けたのだった。階段を昇りきると少し冷たい風が吹いていて、楊戩は長い青髪を慣れた手つきで一纏めに括った。
「わあ、コロニー全体が紅葉してるのがよくわかるよ」
 心地良さそうに眼下に広がる街並みを眺める楊戩の様子をぼんやりと見ながら哪吒はベンチに腰掛けた。今日の映像が世界の一体どこの国を再現しているのか哪吒にはわからなかったが、建造物の壁面まで紅葉している様子はかつてのウェールズのような穏やかな美しさがあった。
「これで、コロニー間特急の映像で見た草原みたいにここが草木に溢れる丘だったらもっと良いのにね」
「移住先の惑星では植物も育つんだろう。いつか見る楽しみにしておけ」
「確かに……え、良い事言うよね哪吒って、意外とポジティブ?」
「お前がネガティブなんだ」
 冗談まじりにこんなやり取りが出来るくらい、哪吒は心を開いてくれている。楊戩は今はそれでいいじゃないかと思った。なにせまだ知り合ってから4ヶ月しか経っていないのだ。お互いが会っていない時にどんな時間を過ごしているのかなど、知らなくて当たり前だった。
 これから関わる中で少しずつ色んなことを知っていけるよう、焦らず親交を深めていけばいいだけのこと。
「ここに……S01に来られてよかった」
「そうか」
 ――なんだか寂しいな、生まれ故郷のこういう姿を目の当たりにするのは……。
 あの言葉を聞いた時に哪吒は、楊戩がここに来たことを後悔しているのだと思った。しかし今日そんな言葉が聞けて「誘った甲斐があったな」と小さく呟くのであった。

▼06 失くしても残るもの

「哪吒!今夜オーロラを見に行かない?」
「何を言っている」

 断りもなく部屋に入ってきた楊戩に驚きもせず哪吒は冷静に応える。二人が知り合ってから早くも5ヶ月が経ち、近頃はこうしてお互いの部屋を行き来する事も珍しくなくなり、楊戩が心配しても「盗まれるものなど無いから別にいい」と哪吒はもはや部屋の鍵を開けたままにしていた。

 【06 失くしても残るもの】

 楊戩は自室から持ってきたコーヒーカップに口をつけながらガタガタとダイニングテーブルに座る。部屋の窓の前に立って外の様子を眺めていた哪吒はそんな楊戩を気にもしていなかったが「こっちに来てよ」としつこく呼ばれて仕方なく向かいに腰掛けた。
「オーロラ!見に行こう!」
「もう見た」
「映像じゃなくて、本物」
「何を言っているんだお前は」
 楊戩は興奮した様子で捲し立てた。どうもB-1地区の一部外壁に、老朽化によって破れている部分があるらしい。外からの"冷気"が流れ込むので、簡易的な防風壁が設置されているものの、その周辺はもう誰も寄り付かず廃墟状態になっているのだという事であった。
「でもその防風壁も崩れてる部分があって、コロニーの外では運がよければ本物のオーロラが見れるんだって」
「危なくないのか」
「もちろん安全の保証は無いし寒さが酷いらしいから、とにかく暖かくして、10分だけチャレンジしてみたいんだ」
 それで見れなかったら諦めて帰るから!と手を合わせて懇願する楊戩を見て哪吒は少し考えた。コロニーの外に出るなどと、今まで想像をした事もない。楊戩の身に何か起きないかという心配はあったが、同時に彼の地球を思う気持ちもこの5ヶ月でたくさん思い知ってきたのだ。
「それは、地球最後の思い出にうってつけだな」
「……うん、ありがとう!」
 断ってひとりで行かせるより、オレが一緒に行った方が何かあった時に力になれるかもしれない。そう思った。だが楊戩は楊戩で、安全の保証はないけど哪吒の事だけは自分が守ると心に誓っていたので、似たもの同士である。
「多分だけど防風壁を修理する資材的な余裕はもう無いだろうから、そのうちB-1地区自体が封鎖されるんじゃないかって噂が流れてて」
 コロニー内部はマス目状に区画わけがなされていて、何か緊急事態が発生した時にはその区画だけを完全に遮断できるよう、隔離壁が地中に埋まっている。二人が以前暮らしていたN01コロニーでも、老朽化して危険と判断されたいくつかの地区を封鎖する為にその地区で暮らす人々に退避指示が出されるような事があった。
「だから今のうちにコッソリ見に行こうと思って」
 夜に迎えに来るから着れるだけの服を着て待ってて、と言い残して楊戩は出て行った。はぐれないようにお互いの体を繋ぐロープや懐中電灯などを買っておこうと工具店へ向かったのだ。

 そうして夜になり、二人はB-1地区へ降り立った。噂の場所は20分ほど歩いた先のハズだが、すでになんとなく駅前全体も冷たい空気に包まれている気がする。コロニー内部の季節はまだ秋だが、この辺りだけ初冬のような気温だった。
「地球は今、もうずっと氷河期なんだって」
「何千年も前からだろう」
「なんだ知ってたの?」
「オレも地球に興味がないわけじゃない」
 コロニーが作られるよりもずっと前から地球は氷河期だった。ただ間氷期(かんぴょうき)と呼ばれる"寒さが軽減される時期"だったので、生き物たちが地表で暮らせただけなのだという。楊戩は"氷河期"というと氷漬けの世界をイメージしていたので、草木が生い茂る上に春や夏のあった数千年前は氷河期ではないと思っていた。
「哪吒をビックリさせるのって難しいな」
「後ろから殴りつけてみたらどうだ」
「そんなことしないよ」
 しばらく歩いて、いよいよ寒さが確実に気のせいではないレベルになってきた時、楊戩は念のため早めに自身と哪吒を繋いでおこうとロープを取り出した。
「哪吒、これを腕でも腰でもいいから巻いておいて」
「ム」
「コロニーの外も時間帯は同じだから今は真夜中になってる。人工光が一切ないから、きっと真っ暗なんだ」
 遭難と迷子防止に、と言われて哪吒は素直にそのロープを自分の右腕に括り付けた。やがて外壁が見えてきた頃には地面には薄く氷が張り、足を踏み出すたびに注意が必要になった。
「わ……これ、凍ってる?建物にも、雪が……」
「足元に気をつけろ」
「哪吒も。もし調子悪くなったらすぐに言って」
 二人は滑って転ばないよう慎重に外壁へ近付いていった。風の吹き込む音で場所には迷わなかった。
「すごい……本当にコロニーの外側に出られちゃうんだ」
「暗いな」
「あ、ライト持ってきたよ」
 楊戩は慌てて持ってきた懐中電灯を点ける。気休めだが無いよりはマシだった。そしていよいよ崩れかかっている防風壁に触れないよう気をつけながら潜(くぐ)り抜ける。一層吹き込む冷気に強く体を押し返されるほどの圧を感じたがなんとか足を踏み出した。
 その奥にあるコロニーの外壁は当然だが相当に分厚く、そこに空いた穴はもはや穴と言っても冷たい風が容赦なくビュウビュウと吹き抜けてくる長いトンネルのようなものだった。一寸先も見えないほどの闇だが、ここまで来て引き返すという選択肢は当然ない。
「早くしないと、凍傷になりそうだ」
 年中気温が管理されているコロニーでは"冬"といっても大袈裟な防寒着や手袋などが必要ないので、なるべく着込んできたとはいえ楊戩も哪吒もこんな気温で活動するにはあまりにも薄着だった。
「哪吒!大丈夫!?」
 隣の哪吒に話しかけるが、あまりの風に自分の声さえよく聞こえない。大丈夫だというように哪吒はお互いに繋がっているロープをクイクイと軽く引いて答えた。この穴を抜けた時に運良くオーロラが発生していなければ、見る事は諦めてすぐに引き返すしかない。楊戩は祈りながら歩いた。

 壁の中も外も完全に真っ暗で、更には吹雪によって懐中電灯もほとんど意味がなかったが、それでもやがてぼんやりと緑色の光が見えてきた。
「わ……うわあ、凄い……!!」
「……」
 外に出ると気温差で激しく吹き込んでいた風は途端に感じなくなり、外壁から少し離れればそこは驚くほど穏やかな大地だった。そして二人の頭上には文字通り果てしなく続く満点の星空に煌々とした満月とオーロラが悠然と揺らめいている。
 何が違うのかは楊戩にも上手く説明できなかったが、以前コロニー間特急で見た映像のオーロラとは全く違う。それは何故か少し恐ろしくて、吸い込まれそうで、涙が出そうな気がする光景だった。二人はほんの数分だけ無言のまま、ただただその光景に見惚れていた。
「これを見ても、哪吒はやっぱりあれをただの電流だとしか思わない?」
「……いや」
 その時哪吒はとても不思議な感覚を覚えていた。それを的確に表す言葉は出てこなかったが、楊戩と同じような事をつまりは感じていた。それに対して哪吒は"どうやらオレは今、感動しているらしい"とまるで他人事のように自己分析をした。
「……お前といると、今まで知らなかった自分をたくさん知れる」
「うん」
 それは楊戩にとっては「綺麗」だとか「凄い」よりも何百倍も嬉しい言葉だった。オーロラの光に照らされて淡く浮かび上がる哪吒の頬に、つい触れてみたくなる。
「オレはそれが楽しい……のかもしれない」
 その言葉に楊戩は胸の辺りがギュウと締め付けられるような感覚がして、思わず「君が好きだ」と口が勝手に言いそうになった。しかし哪吒のそんなたった一言でそこまで舞い上がる自分が気恥ずかしくて、咳払いで誤魔化す。
「それにしても、ここは寒すぎるね」
 今までに時々足の調子が悪そうにしていた哪吒を心配した楊戩は綺麗だけどそろそろ戻ろうか、と何気なくその腕に軽く触れた。するとそのあまりの冷たさに酷く驚いてつい声を上げる。
「哪吒!すっかり冷えてるじゃないか!」
「寒い場所にいるんだから当たり前だ」
「早く戻ろう、早く」
 楊戩は慌てて哪吒を引っ張りコロニー内へ戻ると、そのまま冷気の入り込まない場所まで連れて行き、その体を少しでも温めたくて、服の上から意味などあるか分からないが精一杯に抱きしめた。突然そんな風に楊戩の腕に包まれても哪吒は大人しくしている。それどころか、不思議と安心感のような心地よささえ覚えていた。
「……そんなに心配するな」
「心配するよ!」
「なぜだ」
 楊戩は反射的に「好きだから」と言いかけて止まる。こんな事を突然伝えても哪吒は困惑するだけだろうし、なにより自分自身でさえまだ自覚したばかりのこの気持ちを伝える心の準備など、当然出来ているハズが無かった。
「哪吒は、僕が寒そうにしてたら心配してくれる?」
「ム……」
「じゃ、それと同じ感じ」
「感じってなんだ」
 それも嘘ではなかった。友人が凍えているのを見て心配しない者はいない。哪吒はそれを聞いて半分納得したように小さく頷くと楊戩を見上げた。
「オレはもう大丈夫だ。お前は寒くないのか」
「ちょっと寒いかも。早く帰ろう」
「ム」
「良いものが見れたね」
「ああ」
 その夜、楊戩はベッドの中で瞼を閉じ、あのたった数分の夢のような出来事を思い返していた。そしてこんなにも美しい星を捨てていかなければならないのだ、という事を寂しく思う。しかしもう泣き言ばかり言うのはやめにした。
 ――その代わり、哪吒に出会えたんだから。
 あと3ヶ月と少し……地球を離れても、ここで哪吒と見た景色や過ごしたこの日々の思い出を忘れずにいれば、自分はきっと、ずっと地球人でいられると思えた。

▼07 自覚、そして告白

 もうすぐコロニーの季節は冬になり、あと3ヶ月と少しで移住ロケットへ乗り込む日がやってくる。そんなとある日、楊戩は自室で頭を悩ませていた。もちろん哪吒の事である。
「……惑星M204でも同じ地区に暮らして時々会おう」
「いや、もういっそ好きだって伝えちゃうのも……」
「でもフラれて気まずくなって、二度と会えなくなったらどうしよう」
「う……そんなの想像するだけで耐えられない」
 そんな事を一人でブツブツ言いながら部屋を歩き回る。 (はた) から見たらおかしな光景だが、本人は至って大真面目であった。

 【07 自覚、そして告白】

 そうしてまた別の日の昼間、楊戩と哪吒はコロニーの中央部に位置する一番都会的なC-4地区に観光に訪れていた。石造りのヨーロッパ風になっている街並みの中、オープンテラスに腰掛けてのんびりとコーヒーを飲む。こんな風に当たり前に二人で過ごせる事を幸せだと感じずにはいられなかった。
 少し風は吹いているが、あの寒さを体験した後ではプログラムによって完璧に調整された秋の 涼風 (りょうふう) など生ぬるいとさえ思う。しかし哪吒は大丈夫だろうかとふと気に掛かった。
「哪吒、寒くない?」
「平気だ」
「良かった。あ、ここからコロニー最南東のD-8地区にあるロケット発射場まで高速ライナーが出てるんだよ」
 ほらあれ、と楊戩は頭上を走るレールを指差した。
「宇宙でもコーヒー飲めるかな」
「むしろ今より良いものが飲めるようになるだろう」
「本物の豆で淹れられたコーヒーが実は全然口に合わなかったらどうしよう」
「その時はコーヒー好きじゃなく"エセコーヒー好き"にクラス替えだな」
「それは不名誉すぎる……」
 ではコーヒー好きと呼ばれるのは名誉なのか?と思ったが、デジタルに消費されるモノ以外にこんなにも娯楽の少ない日々の中で、このようなアナログ趣味を持つ楊戩の事を哪吒は素直に尊敬していた。
「お前は強いな」
「え?」
「"自己"がちゃんとある」
 どこでそう感じたのかは分からないが、とにかく褒められているらしい。哪吒の纏う穏やかな空気に楊戩は「言うなら今なのでは」と自分を奮い立たせた。
「あの、哪吒っ」
「ム」
「えっと……」
 勢い余って切り出したは良いものの、結局何をどう伝えるのかがまだ頭の中で全くまとまっていないのを忘れていた。
 ――いきなり告白、はまだちょっと……。
「なんだ。また小難しい事か」
「いや違うんだ、その」
 つい自信なさげに手元に落としていた視線を持ち上げて哪吒を見る。そしてええいままよ、と息を吸った。
「あの、惑星M204ではどこで暮らす予定なの?」
「……」
「同じ地区で暮らしたいなって……」
 いつものように「なぜだ」と聞かれるかもしれない。そうしたら、君が好きだってハッキリ言うんだ……と覚悟を決めて反応を待つ。しかし少しの沈黙の後、返ってきた言葉に楊戩は冷や水を浴びせられたような気持ちになった。
「それはできない」
 一瞬、すぐには言葉の意味が理解できなかった。この半年間でお互いに一緒に過ごす事が当たり前になるくらい親密になれたと思っているのは流石に 自惚 (うぬぼ) れでは無いハズだ。正直、不安だと言いながらも断られる可能性については考えていなかった。
「……な、なんで?僕と一緒にいるの、嫌だった?」
「そんな事はない」
「あ、もう住む場所が決まっちゃってるとか?僕合わせられるよ、まだ地区も決めてないんだ」
「違う」
「じゃ……じゃあ、どうして?」
「……」
 哪吒は答えないまま自分のコーヒーをグイと飲み干した。立ち上がりそうな気配を察した楊戩は思わず引き止めるように少し大きめの声を出す。
「哪吒、僕は……!これからも哪吒と交流を続けたい、よ……」
「……先に帰る」
 そうしてカフェにひとり残された楊戩はしばらくショックで動けずにいたが、日が傾いて来た頃に漸(ようや)く、こうしていても仕方ないから帰ろう……と気を持ち直し、トボトボと帰路に着くのであった。
「……はぁ……」
 さすがにその日の夜は一緒に食事をしようと部屋へ行く勇気が出ず、楊戩は静かに自室へ戻った。なんとなく気まずさから帰ってきた事を知られたくなくて、物音を立てないように扉を閉じる。それほど隣人の生活音は響かないが、この時ばかりは真隣の部屋じゃなくて良かったとまで思った。

 翌日、話し合いを保留には出来ないと思った楊戩はもし本気で拒絶されたとしても、せめてこの想いだけは伝えよう……と意を決して哪吒の部屋を訪れた。
「哪吒、入るよ」
 楊戩が来る事を予想していたのか、哪吒はいつもの席に座って待っていた。
「……わざわざ断らなくていい」
「う、うん」
 哪吒が考えている事は分からない……しかし鍵は開いていた。それは楊戩を拒絶するつもりではないという意思の表れなのではないかと思う。だからこそ哪吒の考えをアレコレ自分の中で勝手に想像するより、今は素直な自分の気持ちを伝えるしか無いと改めて思った。哪吒の考えている事を知るには哪吒の口から聞くしかないのだ。
 ともすれば勇気を失って「昨日のは冗談だよ」だなどと言いたくなる自分をなんとか叱咤して部屋に入り、後ろ手にそっと扉を閉じる。
「昨日は急にあれこれ言って、矢継ぎ早に質問ばっかりしてごめん」
 そう言いながら机を挟んで向かい側の椅子に腰を下ろした。この席でこうして哪吒と向き合って話すのはもうこの半年ですっかり慣れた光景だった。しかしこんなにも緊張しているのは初めてだ。
「……でも本気なんだ。あの、僕は」
「楊戩」
 君が、と続きかけた声を (さえぎ) ように哪吒が不意に楊戩の名を呼んだ。
「オレは 地球 (ここ) に残る」
 そして発せられた信じられない言葉に今度こそ楊戩は頭が真っ白になった。こんな時、相手を尊重しつつ自分の意見を伝えるにはどんな返事を選ぶのが良いのだったか。
「……え」
 ――ここに残る……今、哪吒はそう言った?ここって……地球の事?
 「なんで?」「どうして?」そんな風に責める言葉ばかりが頭に浮かぶ。それで哪吒の心を開かせられるとは到底思えなかった。しかしうまく思考が働かない楊戩の口から勝手にこぼれ出たのは茶化すような台詞だった。
「はは……笑えない冗談、やめてよ……面白くないよ」
「……茶化すな」
 今の状況を信じたくない楊戩に現実を受け入れろとでも言うかのように、哪吒はただ真正面からその目をじっと見つめていた。
「そういった選択をする人もいるって、知ってる、けど……」
 楊戩は視線を落とし、震える声を絞り出す。いつだって哪吒の気持ちや選択を尊重したいと思っていた。しかしこれだけは哪吒が選んだ事なら、などと簡単に受け入れられるはずがない。
 ――百歩譲って元々はそのつもりでこのコロニーに来たのだとしても……この半年間、僕と関わっていく中でその考えを変えようという気持ちにはなってくれなかったのか。
 そう考えると心臓が握りつぶされるほど辛かった。
「それって……つまり自殺なんじゃ」
 哪吒だって何も考えていないわけがない。こんな風にその意思を真っ向から否定する事で説得ができるわけがない。まずは理由を聞くべきなのではないか……それなのに、感情が先走って止まらない。それどころか、自分が何を言ってるのか分かってるのか、と怒鳴りつけたいほどの激しい衝動に襲われる。
「……自殺じゃない」
「じゃあ、何だっていうのさ」
 楊戩の声は低く唸るようだった。その悲しみや怒りを軽く受け流すように哪吒は冷ややかな表情を崩さない。
「お前は何も分かってない」
 その冷たく突き放すような哪吒の言葉に楊戩は思わずカッとなり、ガタンと大きな音を立てて立ち上がった。
「ああそうさ……、何も、何もわからないよ!君がっ……!何も話してくれないんじゃないか!!」
「楊戩、落ち着け」
 動揺で酷く呼吸を乱している楊戩に対して哪吒は淡々とした態度のままだ。たった半年だとしてもこんなに毎日のように一緒に過ごしてくだらない事を話し合って、時間も感動もたくさん共有してきた……と思っているのに、そんな態度も含め「所詮オレとお前は赤の他人だ」と言われたかのような気持ちがして、今度はいっそ泣きたくなった。
「それでも仲良くなれたと思ってたのは、僕だけだった……?」
「……」
「もっと君の事が知りたいって、思ってるんだよ」
 でも踏み込めない壁がある、いつも……そう弱々しく呟いた楊戩に少し言いすぎたかという顔をして哪吒は横を向いた。楊戩が必要以上に踏み込まないよう、いつも最大限に気を遣ってくれていた事は十分にわかっている。しかし、哪吒にも譲れない理由があった。
「お前も……全てをオレに見せているわけじゃない。自分以外の誰かと関わる上で、そんな事は常にお互い様だ」
「そうだけど!」
 哪吒に心を閉ざされないよう落ち着いて話さなければと思っているのだが、一度溢れ出してしまえばもはや自分の意思で感情をコントロールする事は不可能だった。大声を出したり途端に落ち込んだり、もはや情緒がぐちゃぐちゃで、握りしめた拳が震えているのをどこか他人事のように自覚する。
「でもこれだけは絶対に納得できない!考え直してよ、まだあと3ヶ月あるんだから」
「お前は人の決めたことに口を出したりしない奴だと思っていた」
 楊戩は胸がズキリと鋭く痛んだ。哪吒にだけは言われたくない言葉だった。
「そ、そういう言い方をするのは……!」
「誰のせいだと思ってる」
 冷静に見えて実は怒っているのか、絶対に分かっている上でわざと傷付ける言葉を選んだ哪吒に対し、楊戩は次に何を言えばいいのか分からなくなった。喧嘩などしたいわけがないのに……、しかしここで引き下がれば哪吒の選択を受け入れるという事になってしまうではないか。
「誰がこんな事を言わせてるんだ」
「な、哪吒……」
「オレはお前と、一度だってこんな風に言い争いがしたいと思った事はない」
 凍りつくような瞳で睨みつけられて思わず息を呑む。もうこれ以上何も聞くな、と言われているのが分かった。これが最後の警告だ、と。
 だがここまで来て、分かったと言える楊戩では無かった。煮立った頭で「もういっそ喧嘩したまま終わったっていい。僕は最後まで納得なんかしないと知らしめてやる」とさえ思った。
「だって理解できない……できるわけがないじゃないか!こんな所に、残るだなんて!!」
「っ……」
 するとその瞬間、"こんな所"という言葉に哪吒の表情が悲しげに (かげ) ったのを楊戩は見逃さなかった。
「そうか、分かった」
「……な……哪吒?」
「"こんな所"以外に行ける場所のある奴は好きなように言えばいい」
「え」
 そう言った瞬間に哪吒の黒い瞳が不意に色を変え、まるであの日見たオーロラの光のように電気を帯びた緑色に煌めいた。
「オレは旧式のアンドロイドだ」

▼08 隠していた事、隠していた理由

 ふたりの間に重い沈黙が流れた。哪吒はどこか疲れたような暗い顔でただ俯き、楊戩はドサリと椅子に座って言われた言葉を頭の中で何度も繰り返している。
「き、旧式アンドロイド……って……彼らは人形のような姿じゃないか。君は僕たちと何ら変わりない」
「それは外側の見た目だけだ。太乙がそう作り替えた」

【08 隠していた事、隠していた理由】

 その名前を聞いて楊戩は機械やアンドロイドの話題になるとよくテレビなんかで姿を見る黒髪の研究者を思い出した。
「その人、知ってる……。時々テレビなんかでコメントしてる機械学の博士だね」
「ああ。どこでオレの事を知ったのか、ある日旧式のアンドロイドに興味があるといって突然現れた。それから研究の為のデータを譲渡する代わりに、日頃のメンテナンスや改良を任せていた」
 そうして外見は楊戩たちとなんら変わりない姿になったが、中身に関してはほとんどが古いままなのだと言う。そんな事を突然言われても全く現実味を感じられなかった。見た目も動きも話し方もこんなにも自然で、他の人と全く同じにしか見えない哪吒が……旧式、アンドロイド?
「でも、太乙さんはもう地球を離れてしまってるだろう?」
「奴は最後まで残って地球の資材を研究したがっていたが、移住先もその時期も勝手に決められていた」
 彼はあらゆる機械学におけるプロフェッショナルなので、その知識を必要としている施設がある惑星への移住を強制的に決定されてしまったのだった。だから今では定期的に電話をしてセルフメンテナンスの指示を受けているらしい。先日の"用事"とはその事だったのかと楊戩は頭の隅で反射的に思った。
「え……じゃあもし、どこか故障してしまったら?」
「どうもしない。壊れた機械は廃棄されるだけだ」
「だけ、って……」
 哪吒の温度のない声と言葉に楊戩は思わず絶句する。確かに、かつて地球に存在した全ての旧式の機械たちはそうして廃棄されてきたのだ。魚も、犬や猫も……。
「だから地球を出ていくつもりはない」
 いや、というよりも出て"いけない"……と哪吒は言い直した。
「この体は、宇宙飛行に耐えられる作りじゃない」
「そんな……っ、その太乙さんに言ってなんとか出来ないの?」
「オレがオレである為に必要な部分が取り替えられないのだと言われている」
「どうにか保護するとか、強化するとか……」
 無駄だ、と哪吒はバッサリ否定する。そうだろう。宇宙への移住計画が始まった時点でこんな日が来ることは分かっていたハズだ。楊戩が今咄嗟に思いつく程度の事は全て試そうとした後に違いない。
「なにより、それが出来たとしても旧式アンドロイドには宇宙に住民権がない」
「そ……それってつまり……」
「どう足掻いたとしても、オレはこの星と共に廃棄される運命だということだ」
 楊戩は、これまでの会話の中で自分は一体どれだけ無自覚に哪吒を傷付けてしまったのだろうか……と思わず額に手を当て、深いため息を吐いた。
「どうして……黙ってたの?」
「最初は、ただ話す必要がないと思っただけだ。騙すつもりもなかった。人間らしく生きてほしいというのが、母上の遺言だった」
 だから太乙によって見た目を新型アンドロイドのように人間らしく作り変えられる事は渡りに船だったのだと言う。
「母上?」
「ああ」
 楊戩がそう聞くと哪吒は何かを思い出すように目を閉じ、小さく呟いた。
「人間のサポートロボットとして"買われた"のがオレの最初の記憶だ」

 ――目を覚ますと、そこは初めて見る場所だった。しかし言うべきことは分かっていた。

「おはようございますマスター、名前をどうぞ」
「おはよう。あなたは今日から"哪吒"よ」
 哪吒。それがオレにつけられた名前だった。いや、正確には"哪吒"はオレの前にこの家にいた本物の三男坊の名前だった。彼が幼くして亡くなってしまった母上の悲しみを埋めるために購入されたのがオレだった。それからオレは"哪吒"として、彼の性格や口調をコピーし、家族の一員としてその家で過ごした。本来であれば家事や仕事のアシスタントをするために作られたサポートロボットを人間扱いした上に、あろうことか家族のように一緒に過ごさせるなど、当時ではありえないことだった。
 その家の主であった李靖はオレが疎ましいようだった。妻の、息子を失った悲しみをこんな機械なんかが埋められるものか、と思っているようだった。それどころか、サポートロボットを家族扱いしているだなんて事が近所に知れたら、妻が変人扱いされていよいよ地域から孤立してしまう……。だからオレはいつも家の敷地内に閉じ込められていたが、李靖の気持ちを理解することもできたので不満はなかった。母上はいつも優しくて、それだけでオレの心は満たされていた――。
 哪吒の話を黙って聞いていた楊戩はとても信じられないという顔をしていた。
「アンドロイドを奴隷のように扱っていただなんて……一体どれだけ昔の……」
「奴隷というほどのものではない。昔は家事が大変だったから、純粋にサポートが必要不可欠だった。特にコロニーに居住地が変わってからの人間たちは環境に慣れるだけでも相当苦労して、アンドロイドを雇うことは一般的だった」
「そう、なのか……」
「今あそこで掃除をしている機械がいるだろう。当時の人間にとって、ああいった自由意志のない自動機械とオレたちアンドロイドは何ら変わらない存在だっただけだ」
「君たちには個々に意志があって、独立した会話も自己判断もできるのに?」
「昔は今よりも人間と機械の区別が単純だった。動物同士の自然な営みから生まれたものが"生き物"、それ以外のものは"人工物、クローン、機械"。そしてオレは機械に分類されていた。ただそれだけだ。それは悪意や差別の類ではなかった」
 N01で最後の特急に乗り込んだ時、駅に取り残される意志を持たない業務ロボットたちの姿を見ただろう。あれはオレだ。姿形だけは作り変えられているが、本来ならあれがオレの姿だ。
 ……そう続けた哪吒に楊戩は胸が締め付けられるような思いがした。閉鎖されるコロニーに当たり前に置き去りにされていく機械たちを自分と重ね合わせて見送っていただなんて、一体どんな気分だったのだろう。そして初めて出会った時の哪吒の様子を思い返して、更に胸が痛んだ。
「生体細胞のないオレは食物からエネルギーを取り込む事もできない。単なる充電式バッテリーで動いている。しかし意味などなくても食事をし、睡眠をとり、陽の光に当たる生活を毎日してきた。それは母上が"人間らしく生きてほしい"と言い残したからだ」
 母親との思い出を話す時に哪吒の表情が柔らかく綻ぶのを、楊戩は衝撃のあまりどこか上の空でぼんやりと見つめていた。その昔、"母"と過ごした時間は哪吒にとって本当に幸せな日々だったのだろう、と思った。
「だからオレがお前に旧式アンドロイドだと明かさなかった理由は、最初はそれだけだった」
「最初は?」
「……ああ。少しずつ、お前には知られなくないと思うようになった」
 楊戩と"違う"事を、自分自身でも認めたくないような、そんな気持ちになっていったのだと哪吒は語った。
「その理由はわからない。こんなことは初めてだ」
「哪吒……」
「結果的に、嘘をつく形になったのかもしれない」
「っ違う!嘘、は…… () かれてないよ。哪吒はいつだって本当の事しか言わなかった」
「だがお前を騙す形になった事は事実だ」
 そう話す哪吒の様子が酷く悲しそうに見えて、無理やり言わせてしまった事を少し後悔した。だがそれが真実なら、やはり知れて良かったとも同時に思う。
 楊戩は他にも色んなコロニーの最後を見てきたので、切り捨てられるコロニーに取り残されていく自動機械や業務ロボットたちをたくさん見てきた。それこそ、今では相当珍しくなった"旧式アンドロイド"の姿も。これは"知らなければならなかった事"なのだと思った。
「……もう分かっただろう。それが理由で、オレは母上が残してくれた遺産を使いこんな風に表面上だけ人間の真似事をして暮らしていた。それが、母上の望みだったから」
 しかしそれももう終わりだ、と哪吒は力なく呟いた。
「哪吒……」
「だからこれは、自殺じゃない。今までオレなりに生き永らえるための最善は尽くしてきたつもりだ。出来る事が全て無くなるその瞬間まで……」
「哪吒、ごめん」
「母上の眠るコロニーを離れて、一人で……気付けばとうとう、"こんな所"まで来てしまった」
 楊戩はゆっくりと立ち上がり、おそるおそる哪吒に近付き手を伸ばした。自分は信じられないほど酷いことをたくさん言ってしまったのだと絶望する。知らなかったでは許されない。しかし温度のないひんやりとした体を抱き寄せても哪吒は怒ったりせず、大人しく黙ったまま一切抵抗しなかった。
「ごめん……」
「怒ってない」
 ――オレはお前と、一度だってこんな風に言い争いがしたいと思った事はない。
 その言葉は本心だった。だから、今こうして楊戩と落ち着いて話せるだけでもう充分だと哪吒は思った。

 しばらくしてモゾモゾと哪吒が動いたので力を緩め離そうとすると、予想外にも背中に腕が回される。
「……哪吒?」
「母上のもとを離れてまでここへ来る意味があるのか、オレはずっと悩んでいた」
 その声は震えたりしていなかったが、楊戩は哪吒が泣いているのだと思った。旧式アンドロイドにはそんな機能は無いはずだったが、確かにそう感じた。
「でも、最近はここに来た事は正しかったのだと思えるようになった。お前と……出会えたから」
 綺麗なものをたくさん見て、まるで人間みたいに笑い合って、母上の望みを叶えられたと思う。
「……お前は怒るだろうが、出来れば……最後まで話したくなかった」
「うん」
「オレもロケットに乗り込み、惑星M204のどこかで暮らしていると思っていてほしかった」
 移住ロケットの定員により、ここから惑星M204へと飛ぶ初期移住数は1,500人となっている。かつてS01コロニーで暮らしていた人の数から考えれば随分減ってしまったとはいえ、1,500人もの人々の波の中に隠れれば、会えない事もそれほど不思議では無いだろう。
「だから連絡先も教えてくれなかったの?」
「太乙との通信機以外に連絡用デバイスを持っていなかったのも事実だ」
 旧式アンドロイドで住民権を持たない哪吒は携帯デバイスの契約が出来なかった。太乙に「一応持っとく?そっちのコンドミニアムと同じように私の名義で契約してあげるけど」とは提案されたものの、お前とだけ連絡が出来れば問題無いだろう、と断ったのだ。なので哪吒の部屋には太乙ラボ直通の通信機が置かれてあるだけだった。
「楊戩」
「うん?」
「出来ればあと3ヶ月、今までと変わらずに過ごしたい」
「……」
 楊戩はすぐに何も返事ができずに黙り込んだ。その様子を見て、哪吒は背中に回した腕をそっと下ろす。
「……やはり終わりが来ると分かっていて、共に時間を過ごす事は虚しいと思うか」
「うん……思わない……って言えば、嘘になっちゃうかな」
「そうか」
 少し考えさせて欲しい、と言って楊戩はそっと体を離した。断じて嫌なわけではない。しかし、平気な顔をして隣にいられる自信が無かった。そんな自分の態度が哪吒を苦しめてしまうのではないかと思うと、確かに最後まで何も知らずに一緒にいる方が正解だったのかも知れないとさえ思えてくる。
「今日の所は一旦帰るね。また気持ちが落ち着いてからちゃんと話したい」
「分かった」
 思わずため息を漏らしながら憔悴した様子で部屋を出ていくその背中に哪吒は声をかけた。
「ロケットの見送りには行かせてくれ」
 それはあまりにも残酷な別れの言葉だと思った。

▼09 生まれた場所

 やがてコロニーに人工の冬がやってきた。あれからしばらくはどことなくギクシャクしつつも、せめて食事だけは一緒にしていたのだが、楊戩自身うまく笑えていない自覚があり、ここ1週間はずっと哪吒に会いに行けていなかった。こんなにも会わないのはここに来てから初めてのことだ。
 もう次の春にはここを出るのに……会いたいけど、会いたくない。会うほどに切ない気持ちが溢れて、二人でいても、いつもどこか寂しかった。
「こんな思いをするくらいなら、さっさと移住してしまえば良かったのかな」
 楊戩に会えて良かったと哪吒は言ってくれたが、それは同時に別れの悲しさを増幅させたようにも思う。楊戩にとっても、そしておそらく……哪吒にとっても。
 ――哪吒は僕の事を、どう思っているのだろうか。
 そんな、今更考えても仕方のないことをぼんやりと考えた。

 【09 生まれた場所】

「……あ」
「ム」
「哪吒、おはよう」
 気晴らしをすべきだな……と思った楊戩が部屋を出ると丁度同じタイミングで哪吒も部屋から出てきたので、どちらから何を言うでもなく二人はぽつぽつと会話をしながら1週間ぶりに並んで歩き始めた。
「……じゃあ、定期的に外に出て散歩をするのも人間らしい行動だから?」
「ああ。母上とは家の敷地内しか歩けなかったが、それでも毎日少しは散歩をした」
「そっか」
 胸元の開いている服を着た哪吒に「寒くない?」と聞けば「寒さは感じない」と返された。 「でもあんまり冷えるのはやっぱり良くないでしょ」
「ム」
 楊戩は「気休めだけど」と言って自身の首に巻いていた紺色の薄手のマフラーを哪吒の肩に掛けた。

 そうして特に行き先を決める事もなく北の方向へ向かってしばらく歩けば遠くにB-1地区の外壁が見えてきた。崩れている部分の影響もあるのか、空を映し出している液晶部の欠けが目立つ。
「あそこまでオーロラを見に行ったのが随分前のことみたいに感じるなあ」
「ああ、そうだな」
「あんな大冒険、後にも先にも絶対あれっきりだ」
「珍しく思い切った行動だったな」
「はは、そんなに保守的に見える?」
「最初にオーロラを見に行くと言われた時、お前が……」
「ごめん」
 すると突然会話を遮るように楊戩が立ち止まって謝った。一緒にいるのに寂しさを覚えることは、今こうして目の前にいる哪吒に対して本当に失礼だと思う。それでも楊戩は耐えきれず右掌で顔を押さえた。これ以上話せば、勝手に涙がこぼれ落ちてしまいそうだった。
「……ごめん、哪吒……」
 ――うまく笑えないんだ。
 そう小さく漏らした声が震えていて、哪吒は小さく「大丈夫だ」と慰めるように口元に笑みを浮かべた。そんな優しさも、こんな穏やかな会話も、まるで一人で見ている白昼夢のように感じられてしまって、どうしようもなく悲しかった。
「楊戩」
 ――ごめん、哪吒。君はまだ目の前にいて、確かに生きているのに……。
「お前が辛いなら、会うのはもうやめるか」
 そんな事を望んでるわけじゃない。しかし涙が勝手に溢れ出して、声が詰まってしまって、とうとう何も言葉に出来なかった。

「……はぁ」
 それから数分後。「僕はどれだけ哪吒を傷付けたら気が済むんだろう」と楊戩はぐるぐると自己嫌悪に陥りながら一人で歩いていた。あんな風に目の前で泣かれたりして、どんな気分になるだろうか。一番辛い立場なのは哪吒なのに。
「よし」
 今日の夜は一緒にご飯を食べようって、ちゃんと笑顔で誘おう。そう決めて気持ちを切り替える為にパシンと頬を叩いて顔を上げた。
「……あ」
 その時、前触れもなく液晶の空に勢いよくヒビ割れが広がり、突如ガラガラとコロニーの外壁が崩れ始めた。外まで繋がるほどの大穴が開いていたのだ。それがたまたま今、限界に達したのだろう。
 ここから外壁の穴の地点までは4kmほどあるが、液晶の空に走る亀裂は恐ろしい速さで楊戩の真上近くまで広がり、崩れ落ちた壁から舞い上がるコンクリートやセラミックの欠片を含んだ灰色の風が瞬く間にこちらへ迫ってくる。
 正常性バイアスか現実逃避か、そんな光景をどこか非現実的なものを見るかのようにしばらくぼんやりと見上げていた楊戩は辺りの人々が慌てて逃げていく様子を見てようやく自分も早く逃げなければ、と気が付いた。そしてさっき別れたばかりの哪吒の事を思い出して顔面蒼白になる。
「……哪吒……、哪吒っ!!」
 哪吒は足が悪いから、そんなに速く走れないはずだ。逃げ遅れてまだ近くにいるに違いなかった。
「哪吒!!」
 大声で必死に何度も名前を呼びながら来た道を引き返していく。非常サイレンがけたたましく辺り一面に鳴り響き、後ろからは轟音がどんどん近付いてくる。そして道を曲がった先に見えた赤髪に慌てて声をかけると哪吒は驚いたようにパッと振り返った。
「楊戩……何をしてる!」
「哪吒、良かった合流できて……早く避難しよう」
「いいからお前は先に行け」
「出来ない。僕が心配ならとにかく歩いて」
「っ……」
 哪吒はまだ何か言いたげだったが、こんな時にここで押し問答をするのは自滅行為だ。とにかく言われるがままに急いで移動する事にした。ガラガラと恐ろしい音を立てながらコロニーを覆う巨大壁がどんどん崩れ、その下敷きになった建物がまた倒壊し、外から流れ込む吹雪で 粉塵 (ふんじん) が舞い上がり、視界が阻まれる。
「まずい、このままじゃ何も見えなくなる!」
「あそこに避難灯が点灯している」
 哪吒の指差す方向を見ると確かに砂煙に霞む空の向こうに赤い光がチカチカと避難方向を誘導していた。
「本当だ、急ごう。足元に気をつけて……」
「楊戩!」
「うわっ!」
 ガガッと大きな音がしてすぐ近くに瓦礫が落ちてくる。哪吒は楊戩に当たりかけたそのひとつを咄嗟に殴り飛ばした。
「哪吒、よせ!怪我じゃ済まない!」
「怪我じゃない、壊れるだけだ。オレには痛みもない」
「そういう問題じゃないよ!ああ、腕が……」
 瓦礫の破片に削られた哪吒の左腕は表皮が破れ、骨組みが (あら) わになってしまっていた。突然の出来事だったが、小さなパーツがいくつか飛び散ったのを楊戩は見ていた。パッとしゃがんでそれを拾い集めようとする楊戩を引っ張って哪吒は無理やり歩かせる。
「気にしてる場合じゃない。早く行くぞ」
「待って!」
「無理だ。もう瓦礫に紛れてどれがオレのパーツか分からない」
 もう、修理できないんだろう……!と楊戩は喉まで出かかった言葉を認めたくなくて飲み込んだ。自分が怪我をするより辛そうにしている楊戩を見て、哪吒は「善処する」と呟いた。しかしその左腕はもう動かせなくなっていた。
「壁の崩壊は少し落ち着いたのかな……」
「いつまた崩れ出すかわからん」
 どうやら外壁が崩れ落ちてくる音は止まったようだが、まだまだコンクリートや金属やセラミックなんかの塊はあちこちからバラバラと落下してくる。恐怖心を煽るようなサイレンの爆音と、昼間でも刺すような南極の冷気に煙る視界の中、とにかく二人は互いを庇いあうように寄り添いながら避難誘導灯の灯りを頼りに進んだ。
『B-1地区にて緊急事態が発生しました。マニュアルに従い、これよりA-1、A-2、A-3、B-1、B-2、C-1地区の隔離閉鎖を行います。住民の方は30分以内に対象地区外へ避難してください。緊急事態が発生しました……』
二人はB-2地区からB-3地区の方向へ南下していたので、丁度もう少しで隔離エリアから抜け出せる所だった。
「見えた、あそこからB-3地区だよ!哪吒、足は大丈夫?もう少しだから、なんとかあそこまで行こう」
「ム」
「はぁ良かった、落ち着いたらその腕もなんとか直せないかな……」
誘導灯を持ったロボットが地区間に立っているのが見え、救助ロボットたちがワラワラとこちらへ向かってくる様子にホッとする。その時不意に足元がグラグラと揺れた。地中に埋まっている巨大な隔離壁が起動準備を始めたらしい。
「え、わ……っと」
 その瞬間にガンと物凄い衝撃が全身に響いて視界が真っ暗になった。一体何が起きたのか、全く分からなかった。

「……う」
「楊戩」
 楊戩はほんの少しだけ意識を失っていたが、冷たい指で頬に触れられる感触がして覚醒しうっすら目を開けた。すると先ほどの揺れで落ちてきたのか、あまりに巨大な瓦礫が目の前にあった。こんなのに押し潰されたらひとたまりもない。楊戩はゾッとして起き上がった。
 するとそれに当たってしまったのか、すぐ隣で仰向けに転がっていた哪吒の左足が大破してケーブルや骨組みが剥き出しになり、辺り一面に細かいネジやバネ、金属片が飛び散っていた。
「楊戩……生きてたか」
「な、哪吒……っ哪吒!!」
「この足は元々壊れかけていた。気にするな」
 怪我をしてないか、と聞かれて気が付けばあんな衝撃を受けたにも関わらず小さなすり傷以外、ほとんどどこにも怪我は無かった。もしや庇われたのだろうか。
「僕は、大丈夫……」
「ならそれでいい」
「……本当にもう、直せないの?」
「部品が無い。資材不足が続く今、こんな旧式アンドロイドのパーツなんか、とっくに製造が終了している」
「ごめん、僕の方が足を引っ張って」
「そんなんじゃない」
 とにかくB-3地区は目の前だ。今は心配したり落ち込んだりするより先に、まずここから逃げなければならない。それからの事はその後に考えればいい。
「起き上がれる?肩を貸すから、早く逃げよう」
「オレは行けない」
「え……」
 よく見ると倒れている哪吒の左腕が完全に瓦礫の下に埋まってしまっていた。
「そ、その腕って切り離せたりする?」
「無理だ、そんな機能はない。お前は行け」
「行けるわけないよ!」
 その時、楊戩は丁度近くを通りがかった救助ロボットに駆け寄った。
「あのっ!!」
『はい、怪我はありますか』
「僕は大丈夫なんですけど、友人が瓦礫に挟まってしまって……手を貸してください」
『危険地区から一刻も早く退避してください』
「だから、あそこにも一人……!」
『あちらのアンドロイドは救助対象者ではありません』
「なっ……!?」
 そう言い残し、他の"住民権を持つ"要救助者を助ける為、救助ロボットは無情に立ち去っていった。
『20分後に隔離閉鎖が始まります、住民の方は対象地区外へ避難してください。20分後に隔離閉鎖が……』
 鳴り響くサイレンと隔離のアナウンスに楊戩は弾かれるように走り出し、近くを通る他の救助ロボットに次々と声をかけたが、何度頼んでも同じ返事しか返ってこない。だったらせめて工具を貸してくれと叫んでも『早急に避難してください』としか言われなかった。
「哪吒、哪吒……っどうしよう……!」
「もういいからお前はこの地区を出ろ」
 哪吒のもとへ戻っても、こうなる事が分かっていたのか動揺した様子はない。それどころか「早く避難しろ」と聞き飽きた台詞を言われてしまう。
「どうして!!」
「もう分かってるだろう。住民権が無いオレは救護される対象じゃない。ただそれだけだ」
「……っ!」
 今度はB-3地区の入り口で避難誘導をしているロボットに駆け寄り、再度「哪吒を助けてくれ」と頼んだが、『15分後に隔離壁が閉じ、このエリアは閉鎖後完全に隔離されます。対象者は早急に避難してください』とやはり同じ事を言われる。
「あの挟まってる腕を切り離すだけでいいから!」
『彼は旧式アンドロイドです。故障時点での廃棄処分が決まっています。救助対象ではありません』
 楊戩はまだ諦めたくない気持ちと哪吒の側にいたい気持ちが葛藤して、動けない哪吒の (かたわ) らにヨロヨロとへたり込んだ。あまりにも無力で、唇を噛む。
「嫌だ、哪吒……っ!避難場所はすぐ、もう目の前なのに!!」
「気にしなくていい。その時が少し早まっただけだ」
 哪吒の声は穏やかだった。そして淡々と救助活動をしているロボットたちを見て「あいつらと共にオレも母上の所へ行く」と目を閉じる。
「お母さんの所……?」
「ああ。昔、全ての命には魂魄が宿っていて、そして肉体を失った者の魂魄は空へ飛ぶのだと言われていた」
「……じゃあ、哪吒のお母さんは今もこの地球の空にいるのかな」
「そうだと思っている。空で待っていると言われた」
 お空でのんびりまってるから、哪吒はなるべくゆっくり来てね……という母親の言葉を哪吒は思い出していた。望みはきっと叶えられた事だろう。久々に会えたら優しく抱きしめてくれるに違いない。
「……うん、きっと……待ってるよ」
「楊戩、泣くな」
「ごめん……」
「お前が泣くと、困る」
「なんだい、困るって」
 楊戩は空元気で「僕が泣いてたらちゃんと慰めてよ」と冗談を言って少しだけ笑った。
「……とにかく困るんだ」
 泣いたり怒ったりする楊戩を見たくない。いつも笑っていたら良いと思う。その気持ちがどこからやってくるのか、何故そんな風に思うのか、哪吒には分からなかった。しかし"それが分からないという事"が少しだけ寂しいような気がした。
「もっとお前と時間を共有して、まだまだ知りたい事があったような気がする」
「うん、僕もだよ」
『10分後に隔離閉鎖が始まります、住民の方は対象地区外へ……』
 崩れた壁の向こうから凍てつくような冷たい風が容赦なく流れ込んでくる。哪吒は楊戩の顔色が悪いのを見て、重たげに残った右腕を持ち上げると優しくその青髪に触れた。すると悲しみに耐えきれず楊戩はその場に (うずくま) った。
「ここは寒い。そろそろお前は避難しろ」
「置いて、いけないよ……」
「もう時間がない」
 冷気のせいか、嗚咽のせいか、楊戩は酷く震えている。哪吒はそれが心配だと思った。
「そんなに泣くな。こんな事で」
「っふ……、う……」
 蹲ったままの腕の間から漏れてくる楊戩の悲しげな声を聞くと、ズキズキするような嫌な感覚が哪吒の胸に広がった。それはとても不思議な感覚だった。
「哪吒、哪吒……君が好きなんだ」
「……ああ。知ってる」
「離れたくない、ずっと一緒にいたいよ……」
「……」
 哪吒は"それは無理だ"と思った。そもそも旧式のアンドロイドは地球から出られない。別れは初めから必然だったのだ。更に今はこうして足が故障してしまって、腕が瓦礫の下敷きにまでなっている。それに、もしどこも下敷きになっていなかったとしても、哪吒の体は楊戩ひとりでは持ち上げられない重量だった。
「楊ぜ、ん……」
 それなのに、何故か突然"オレも一緒にいたい"という言葉が口から勝手にこぼれ落ちそうになって、そんな無意味な言葉が浮かぶなんて衝撃でプログラムが故障したか、誤作動か、と考えた。第一、そんな事を伝えたら楊戩が余計に動けなくなる事が分かりきっている。自らの衝動を誤魔化すように、楊戩の髪に触れていた右手を動かしてそっと涙に濡れる頬に添えた。
「春……コロニ、が閉じ、たら……次……星、へ行け」
 寒さのせいか電気回路が壊れたのか声が出にくくなってきた。だんだん周りの音も聞こえづらくなって、うまく言えたかどうか、よく分からなかった。遠くからまもなく隔離壁が閉じるというアナウンスが響いているのがなんとなく分かる。しかし一向に動きそうにない楊戩に、哪吒は生まれて初めて"焦る"という感覚を覚えた。
「よ、ぜん」
「嫌だ、一緒にいる……」
 声が出にくいので、哪吒は楊戩の頬に添えた手に少し力を込めて耳を近付けるように促した。
「離れたくないなら、オレの核を持っていけ」
 吐息で囁くように楊戩の耳元でそう言うと、哪吒は楊戩に掛けられたマフラーをグイと引っ張って自身の胸元を晒す。すると「ここにある」という声と共に陰陽柄の丸い核が (まばゆ) く光って、その胸の中に透けて見えた。そして何やら耳の後ろの辺りを触ったかと思えば、その胸元の一部が開いて核が表出した。
「っ、出来ないよ……!」
「前に……言っただろう。他の惑星に、引っ越しても……星々の中に地球はある」
 まだ泣きやまない楊戩の頬を困ったように指で拭って、哪吒は微笑んだ。
「いつでも、そこにオレはいる」
「……っ、哪吒……」
 ――誰かと一緒なら、月もより綺麗に見える。それが愛する人なら尚更……
 そんな楊戩の言葉を不意に思い出した。気のせいかもしれないが、その言葉の意味が今なら少しだけ分かる気がする。
「お前と見た景色は、何故かいつも眩しかった」
 この気持ちはきっと誤作動なんかじゃない。楊戩と過ごした時間はたった半年だけだが、オレの中で確実に何かが変わったんだろう……哪吒はそう思ったが、もう体は動かなかった。
 楊戩は涙を止めようともしないまま哪吒の体温のない唇にそっと口付けた。楊戩の目から流れ落ちてきた涙が頬を伝い、まるでオレも泣いているみたいだな、と哪吒は思った。

『まもなく隔離壁が作動します、対象者は対象地区から退避してください。まもなく……』
 この半年で楊戩と見てきた色々な景色が自然と蘇ってきて、哪吒は「まだ眠りたくないな」と思った。しかしそんな思いとは裏腹に主電源を担う核を抜き取られて強制的に薄れていく意識の中、振り返らずに走り去る楊戩の背中を最後までただ見つめていた。

 こうして哪吒を残したまま、北西の6地区は3ヶ月後のコロニー閉鎖を待たずして隔離廃棄されたのであった。

▼10 物語の終わりに

 地球という氷に覆い尽くされた星に建てられた50個の巨大コロニーのうち49個がその稼働を終了し、とうとう最後のひとつであるS01コロニーにも役割を終える時がやって来た。

「……はい、わかりました。ありがとうございます、はい……失礼します」

 コロニーの内部はマザーコンピュータの管理によって制御されている人工的な季節転換により、数日前からすっかり春の様相となっていた。

【10 物語の終わりに】

 駅のホームにあるベンチにひとり腰掛けていた楊戩は通話を終え、ふうと息を吐いて空を見上げた。その手には哪吒の"核"が握られている。

「……」

 哪吒を残してB-2地区から避難した後、しばらくは完全に無気力状態となった楊戩だったが、ある日ふと思い立って哪吒の改良とメンテナンスを担当していたという太乙氏にコンタクトを取った。
 そして哪吒と過ごした日々の事や、彼が故障して崩れた地区に取り残されてしまった事を全て話した。……その核だけは今、自分が回収して持っているという事も。

 太乙は哪吒の精神的な成長について非常に興味深そうにいくつか質問をした後「 宇宙 (こっち) に来れない事は分かってたけど……やっぱり少し寂しいね。私だって、あの子の事を単純に研究対象とだけ思ってたわけじゃないからさ」と溢した。
 一縷の望みを賭けて、回収した核から哪吒を再建出来ないのかと聞いてみたが、その"核"は単に哪吒を動かしていた動力源の一部に過ぎず、記憶や意識というのはとても複雑なもので"あの哪吒"は絶対にもう取り戻せないのだと説明された。

 ――それに残念だけど、10年くらい前に施行されたアンドロイド人格保護法によって、核が本体から取り外された時点で当人の人格に関係するような重大なプログラムは自動的に初期化される事が世界的に決められちゃってるんだよね。
 ――哪吒の最後の様子を教えてくれて……それから、最後まで一緒にいてあげてくれて、ありがとう。

 そんなやり取りをしたのが、冬の終わりの事だった。
「……哪吒の"魂魄"は、もうこの世界にいないんだね」
 物思いに (ふけ) っているとホームにアナウンスが流れ、いつもの乗り慣れた列車が滑り込んできた。楊戩は開かれた扉をしばらく見つめ、先ほど太乙から掛かってきた電話の内容を反芻する。やがて発車ベルが鳴り響いたが、楊戩は手に持った核を見下ろし、立ち上がらなかった。

「いいんですか、出ますけれども」

 車掌にそう声を掛けられて、顔を上げた。
「……はい、大丈夫です」
 扉が閉じて動き出し、小さくなってやがて見えなくなるまで楊戩はその列車を眺めていた。それは楊戩と哪吒が暮らしたコンドミニアムのあるこの地区からロケット発射場へ向かうライナーに乗り継ぐ為の最後の列車だった。ギリギリまで悩んだが、遂に楊戩はそれに乗り込む事を選ばなかった。


 遠くから惑星M204行きロケットの飛び立つエンジン音が地面を這うように鳴り響いてくる。それを聞きながら楊戩はB-2地区とB-3地区を隔てる分厚い隔離壁の前にいた。
「哪吒、君は怒るかな」
 行けって言われてたのにね……と申し訳なさそうに呟いて、楊戩は自らの右耳の付け根に人差し指を軽く当てた。するとピッと軽い電子音がして、首の後ろのコネクタカバーが開く。そして手に持った一本のケーブルを見つめた。

 ――あ、もしもし……まだロケット出発してない?良かった。あのさ、哪吒の部屋のどこかにデータ転送用パッチケーブルがあるハズなんだ。あの子が捨ててなければね。それがあれば相当古い型番のコネクタでも接続が可能になるんだよ。とはいえ本当に古い型番だったから、作るのにすっごく苦労したなぁ……なにしろ"本物"の人間たちと一緒に暮らしてた時代のアンドロイドなんだからさ。
 ――哪吒が……、旧式のアンドロイドが人間らしさを追求して暮らした事による思考回路の変化や感情の学習結果なんかが知りたかったんだけど……もう無粋な事をするのはやめにする。だからそのパッチケーブルは単純に君にあげようと思って連絡したんだ。ギリギリの連絡でごめんね。こっちもバタバタしてて……、だから見つけられたら、持って行っていいよ。

 太乙には「でも何が起きるか分からないから直接自分と繋いだりは絶対にしないように」と強く警告されていたが、楊戩はあっさりと自身のコネクタにそのケーブルを差し込んだ。そして手に持った哪吒の核に一度だけ優しく口付ける。

 ――核は完全なブラックボックスだから、正直なところ何が見れるかは私にも分からないんだ。何もデータが残ってない可能性もあるし、もし故障してたら予想外の電圧が流れたりして、繋いだ先の機器も故障しちゃうかもしれないから、悪いけどそこは自己責任でね。

 そんな言葉を思い返していると巨大な機械の動作が止まるようなブーンという低い電子音がして辺りは完全なる暗闇に包まれた。コロニーの全ての電源が落とされたらしい。
「わ……」
 そして数分後にはモーターや冷却機、暖房、人工風を起こしていたファンなど、慣性で動いていた全ての機器がその動きを完全に止めたようで、生まれて初めて体験する耳が痛くなるほどの静けさに包まれた楊戩はおかしそうに笑った。
「……こんなに静かなんだ。機械の動いてない世界って」
 そして手探りで哪吒の核の表面にあるコネクタを見つけると、一切の迷いなく自らの首から伸びているケーブルの先を差し込んだ。


 地球がすっかり住めない星になり、生き物たちは人工のコロニーへ閉じ込められ、やがて全ての"人類"が滅んだ後、アンドロイドたちは人間にどんどん近付いていき、やがて"新型アンドロイド"とかつて呼ばれていた人工生命体たちは、生体細胞で構築された肉体を持つ自らの事を"人間"や"人"と呼称するようになった。
 空を飛べる翼を付ける事もなく、絶大な筋力を持つ事もなく、何でも知っている脳を作り出す訳でもなく、ただただ非力で、感情的で、物忘れもする……。そんなあまりにも"人間らしい人間"を目指して、彼らはある意味"退化"していったのだ。
 摂取した飲食物からエネルギーを生み出し、やがて劣化もしていく。とはいえプログラムをアップデートし、古くなった細胞を取り替え続けていくことで永遠の命を実現できはするものの、中にはそれを望まずにまるで"本物"の人間のように年老いて最終的には眠るように動作を停止するアンドロイドもいる。

 寿命の無い人生……それは例えばパズルのような終わりのないゲームを遊んでいる感覚に近いと誰かが言った。いつかそれを終わらせる時が来るとしたら、そんな悠久の時に"飽きた"時だ、そんな人生の終わりなど、虚しいではないか、と。  だから生体細胞の経年劣化による動作不良を自然のものとして受け止め、その"肉体の寿命"を人生のエンディングと定義し、それまでの時間に自らの物語を描くのだと。それは緩慢な自死ではないかと否定するものもいる。選択の自由だと肯定するものもいる。

 ……とにかく、これが"楊戩"それから"哪吒"と名付けられた二人の新旧アンドロイドが辿った物語の結末である。そしてこの地球という星の歴史はこうして一旦の終わりの日を迎えた。
 遠い未来……数百年、数千年、数億年後には今の"氷河期"が終わり、また大地に植物が芽生え、生物が生まれる時がきっとやってくる。
 その時、地上に残されたコロニーやアンドロイドたちの残骸がその生態系に少しでも何らかの影響を与えたとすれば、それは二人の魂魄がいつかまたここで生まれ変わって出会える希望になるかもしれない。

 だが少なくとも今は、生きる物のいなくなったこの星の南の一番端っこで、二人は寄り添って眠りについている。

 

▼00 いつかの未来の物語

 ――時々、見た事などないはずの景色がとてつもなく懐かしく感じられて、泣きたくて堪らなくなる時がある。

 【00 いつかの未来の物語】

 "懐かしい"という感情はどこか"寂しさ"や"悲しみ"にも似ていると思う。オレはいつだってどこかに帰りたいような気がして、胸に隙間が空いてるようなこの感覚を埋めてくれる"何か"をずっと探していた。
「ねえ哪吒、どうしたの?」
 低く唸るような室外機の音を聞きながら見るともなしに空を見上げてぼんやりと思考を漂わせていると、隣から無遠慮に話しかけられて現実に引き戻された。
「……なんでもない」
「ぼーっとして、風邪でも引いたんじゃない」
「平気だからいちいち心配するな」
 屋上でひとりで弁当を食べる安らぎの時間が、少し前に転校してきたこの楊戩とかいう奴に破壊されるようになって今日でもう1週間が経った。
「哪吒お昼食べないの?パンあげようか」
「もう食べ終わっただけだ」
「遠慮してない?」
「してない。気持ちだけ受け取っておく」
 静かな時間を邪魔されてうんざりしているはずなのに本気で拒否しない自分の事もよくわからなくて、それが余計にモヤモヤする。
「ここに侵入している事がバレたら転校早々に処分を受ける事になるぞ」
「まあまあ。そういえばネットニュース見た?オーパーツが見つかったって」
「見てない」
「手のひらサイズの機械みたいな物なんだけどね」
 こんな風にオレが話題を切り捨ててもこいつは気にせず話し続ける。毎度のことだ。むしろこれくらいにしておかなければどんどん盛り上がるから面倒なのだった。
「南極の観測隊が見つけたんだって。これ何なんだろう?凄く硬度が高くて少なくとも石や貝じゃない、人工的な物質で作られてる可能性があるんだって」
 太古の地層から当時の文明ではあり得ないような技術が使われている何らかの装置が発見されたらしいのだと興奮気味に話す楊戩に冷ややかな視線で返す。
「ほら、そんな硬い物質なのに何か彫刻がされてあって」
「興味ない」
「いいからちょっと見てよ」
「さっさと飯を食え。昼休みが終わるぞ」
 こんなものはどうせ誰かの捏造だろう。ネッシーやツチノコと一緒だ。そんなよくわからない画像を見せられてもオレには意味不明だと一蹴して睨みつければ流石の楊戩も口を尖らせて自分のパンに齧り付いた。
「あーあ、君には情緒ってものがないよね」
「うるさい」
 歴史の授業をちゃんと聞いていればそんな昔に文明がなかった事くらい当然知っているだろう。そうあしらうと「それが覆る大発見かもしれないから、こうしてニュースになるんだよ」と言われた。それは確かにそうか。

「僕、全てのオーパーツ発見に対して毎回ってわけじゃないんだけど、こういうモノを目にすると妙にドキドキする時がたまにあるんだよね」
「単なるオカルト好きだ」
「ね!哪吒って生まれ変わりとか信じる?」
「……脈絡って知ってるか」
 まあ聞いてよ!と楊戩は自分の話したい事を好きなように話す。真面目に返事する事を強要しないのなら、好きに話していればいい。こうして話すようになってまだたった1週間のはずだが、すでにこの押しの強さにも不本意ながら少し慣れ始めているオレがいた。
 オレは別に人と過ごすのが嫌いというわけではないが、自分から話題を振ったり中心になって話すのが得意じゃない。だから黙っていても勝手に話し続ける楊戩とは意外と相性は悪くないのかもしれないな、と他人事のように思った。
「聞いてる?例えばこういうニュースとか、どこかの景色の写真とかを見た時にデジャヴを感じる時があるでしょ」
「ム」
 あれって、個人的には前世もしくは来世の記憶説を推してるんだ。と語る楊戩に「来世?」と思わず尋ねると真剣な顔で頷く。
「時間が常に過去から未来に向けて一方通行だなんてつまらないじゃないか。僕は未来から過去に生まれ変わる事もあったら面白いなって」
「またオカルト話か」
「あれ?でも時間を逆行して生まれ変わったとしても、結局その人生を先に経験したならそれはやっぱり前世?」
「架空の話に対して真面目に定義を考えても仕方がないだろう」
「まあそうなんだけどさ」
 そう言って楊戩は「あ」と思い出したようにポケットからスマホを取り出し待受画面を見せてきた。次々に飽きない奴だ。仕方なく目線をやるとそれはどこかの国の紅葉した街並みの写真だった。
「僕、この写真が無性に好きで」
「……」
「いや、好きというか……なんだか悲しいような、寂しいような気持ちにもなるんだけど」
「それが懐かしいという事なんじゃないのか」
「哪吒もやっぱりそう思う?懐かしいって、ちょっと悲しいよね」
「ム……」
「こんな景色なんて見た事無いのに、どうしてこんなに懐かしいって感じるんだろ」
 その写真を見た時、オレの中でも確かに何か懐かしいような感覚があった。しかしこういう"綺麗な景色を見た時に感動するような事"はごく一般的な感性なのではないかと思う。
「……お前はこれが、前世か来世の記憶からくる感覚だと言うのか?」
 本気で信じているわけではないが、一応そうして話を合わせてやると「もしそうならロマンだよね」と嬉しそうに微笑まれた。夢想家なのかそうじゃないのか。
「お前の説に乗るとすれば、懐かしいと感じる景色は過去に確かに存在していたり、 現在 (いま) どこかに存在する場所ばかりでは無いかもしれないということになるな」
「あ……それはそうだね。まだ存在する前だったらその景色の写真さえ見る事も叶わないし、会いたい人がまだ生まれる前だなんて事もあったら、それはちょっと寂しいな」
「会いたい人?」
「……実は」

 その時予鈴が鳴り響き、オレと楊戩は思わず口を閉じて顔を見合わせた。もうそんな時間になっていたのか。
「時計見てなかった!教室に戻ろう」
 残りのパンを口に放り込んでバタバタと駆け出した楊戩を追い屋上を後にする。しかしオレは走らなかった……というより正しくは走れない。酷いわけでは無いが昔から左足があまり良くなくて、急に走ったりは出来なかった。
「哪吒?」
 楊戩は先に階段を降りていたが、オレがついてきていない事に気が付いて振り返る。
「いいからお前は先に行け」
 そう言った瞬間、楊戩はハッとしたように顔を上げてこっちを見上げた。チリッと何かを思い出しそうな感覚がする。
「今……」
「なんだ」
「なんだろ、今すっごいデジャヴだった」
「……ム」
「哪吒」
 踊り場にいた楊戩はわざわざ階段を引き戻してきて、おそるおそるという感じで抱きしめてきた。
「……突然、何だ」
「ごめん。でもこうしないと哪吒がどこかに行っちゃうような気がして……」
 オレの方が数段上にいて、今この場でのお互いの身長はほとんど同じくらいだった。意味は全くわからないがやはり拒否するような気は起きず、それどころかなんとなく安心するような心地さえしてきて、そっと楊戩の肩に顎を乗せてみた。
「これ、変な口説き文句だと思わないでほしいんだけど、あの」
「……ム」
「僕ずっと前から……哪吒に、会いたかったんだ」

 どう考えてもおかしな事を言われているのだが、なぜかその言葉を聞いた時、胸の中に何かがストンと落ちるような感覚があった。そうだ、オレも……こんな感覚をずっと前から知っている。
「オレも、お前を待っていたのかもしれない」
「え」
「お前のいる景色をずっと探していた」
 そして体を起こして衝動的に楊戩の胸ぐらを掴み、雑に引き寄せそのまま口付けた。


 やがて本鈴が鳴ったので体を離すと、楊戩の頬には涙が伝っていた。
「5限目、遅刻しちゃった。怒られるね」
「なぜ泣く」
「え……?あ、あれ、どうしたんだろ」
 楊戩はオレに言われてようやく自身の頬に伝う涙に気が付いたようだった。それはポロポロと次々に溢れ出して止まらない。その様子を見ているとオレは何故か辛いような気がして早く泣き止ませたいと思ったが、こんな時に一体どうすればいいのか、よく分からない。
「そんなに泣くな」
「ごめん……」
 泣き止まない楊戩の頬に手を当てると情けない顔で見つめられて、思わずオレは笑った。
「……お前が泣くと、困る」
 すると楊戩も泣きながら笑ってまた抱きついてきた。

「なにそれ、ちゃんと慰めてよ」

▼00 春思う苛立ち (R18)

 ――ああ、イライラする。

 そう頭の中で吐き捨てた。いや、声に出ていたかもしれない。その時、耐えるようにシーツを握りしめて震える手と唇を噛み締めて歪む顔が視界に入った。
「あっ、あ…っ楊、ぜ、んっ……」
 正しくは"イライラ"では無いのかもしれない。最近の楊戩は胸が締め付けられるような、焦燥感のような、そして悲しみのような……常にそんな複雑な感情の渦中にいた。シャツを脱ぐ隙さえ与えず組み敷いた哪吒が自身の下で苦しみに喘いでいるのをどこか他人事のように見下ろす。
「哪吒……」
「う、ぁあっあ、あっ」
 はだけたシャツの首元にはキスマークではなく力加減ができず無遠慮に噛み付いてしまった歯形が見え、うっすらと血が滲み赤く浮き上がっている。最低限しか慣らさずにローションを使って無理やり挿入したので、哪吒は快感を示さずその陰茎も萎えたままだ。それほどに酷く扱われているのに、逃げようとも抵抗しようともしない哪吒の晒す痴態にまたイラついた。
「あ、っく、うぅ……っ」
 哪吒の体内に (うず) めていた自身をズルリと引き抜き、強引にうつ伏せにさせる。突然の衝撃にまだビクビクと全身を痙攣させている哪吒に休む暇も与えず、腰を掴んで上げさせるとそのまま奥深くまで一気に貫いた。
「……っ!あ、う、ぁあっ!」
「声抑えて」
 後ろから抱き込み、哪吒の口に手を回し塞ぐ。指の間から熱い吐息が漏れるのを感じた。苦しそうな声で呻く身体を押さえつけて乱暴に犯す。
「ふ、うっ、う…っ!う、ん……っ」
 ふぅふぅと苛立ちに興奮した自身の呼吸の音だけが頭に響いている。激しく抽送を繰り返すうちに腕の中の哪吒は失神したようだった。


 ***


「楊戩」
 頬に触れられる感触がしてハッと目を覚ますと窓の外はすっかり暗くなっていた。
「あ……」
「夢でも見たのか。魘されていた」
 嬌声に枯れ、少し疲れたような哪吒の声がそれでも優しく話しかけてくる。
「……ごめん、酷くして」
「謝るな。そんなヤワじゃない」
 それにちゃんと後始末をしてくれたろう、とそんな事は当たり前なのに礼を言われる。楊戩は寝ている間に流れたらしい自分の頬に伝う涙をゴシゴシと擦った。
「あまり強く擦るな」
「哪吒は気にしなくていいから」
「……」

 ――イライラする。

 何をしても変わらない哪吒の優しい態度にも、過ぎた事ばかり思い出してしまう事にも……、もはや風が腕に当たるだけでも気分が逆立った。それを世間一般的には思春期や反抗期と呼ぶのだが、激しい感情の波になす術もなく溺れている楊戩には自分の状況が冷静に判断できずにいた。
「楊戩」
「悪いけど今日はもう帰って」
「……わかった」
 文句のひとつも言わずに部屋を出て行った哪吒にまた胸の中で様々な思いが渦巻き、楊戩は自己嫌悪で頭を掻き乱した。


   ***


 翌日、学校で見かけた哪吒は足の調子が悪そうだった。負担をかけないよう抱き合う時はいつも気をつけていたのに、昨日は膝立ちにさせた上に気を失うほど手荒にしてしまった。首に貼られた大きな絆創膏も痛々しい。
 教室でパチッと目が合った時、哪吒が何か話したそうにしているのは楊戩にも分かったが敢えて無視をした。苛立ちが収まらず、こんな時は思ってもないような言葉が勝手に出てしまう。今はロクな会話が出来ない自覚があった。

 かと思えばまた別の日は授業以外どこへ行くにも付き纏い、片時でも離れる事を必要以上に怖がったりする。つまり楊戩は"あの記憶"に振り回され、自分で自分がコントロール出来ない状態なのだった。
 本当は誰よりも哪吒を大事にしたいと思っているのに、過ぎた出来事に対する悲しみや哪吒をまた失う時が来るかもしれない不安、哪吒をあんな風に抱いてしまう自分への苛立ち……それに、思春期特有の性欲までもが入り混じって心が常にピリついていたのだ。

   哪吒にはそれが理解できるので、何も言わずただ寄り添っていた。むしろ、それだけ"あの頃の自分"が楊戩の心を深く深く傷つけてしまったのだとさえ思っていた。楊戩に乱暴にされたとしても、これは贖罪なのかもしれない……と。


 ***


 そんな日々がどれくらい続いたのか、それでも二人は一緒にいたものの相変わらず不安定な楊戩に振り回されて哪吒は少しだけやつれていた。
「放っておいて」
「ム」
「イライラするんだ、哪吒といると」
 珍しく昼休みに屋上へ来なかった楊戩を探して中庭へ出るとひとりで黙々と購買のパンを食べている所を見つけたが、近寄ろうとして先手を打たれる。言われるがままに立ち去ろうとした哪吒に楊戩はまたカッとなった。
「なんでそんな従順なの?文句くらい言いなよ」
「文句なんか無い」
「無いわけある?あんな風に扱われて、一日中付き纏われるかと思えば今度はこんな風に突き放されて!」
 周りには他にも生徒がいるのに、楊戩は気にもせず大きな声を出す。喧嘩かと近くの女子生徒たちは足早に中庭を後にした。ちょうど中庭に面する廊下を通っていたクラスメイトの天化に「大きな声出してどうしたさ」と声をかけられ、哪吒は「大丈夫だ。少し話してくる」と楊戩の腕を掴むと人気のない場所へ移動した。


 ***


   二人は予鈴が鳴っているのも気にせず視聴覚室へやってきた。ここの鍵が壊れている事は一部の生徒の間では有名な話で、人気のサボりスポットのひとつであった。ちょうど先客がいないのを確認して、哪吒は楊戩に向き直る。
「……オレと一緒にいるのは、辛いか」
「辛いよ……」
「お前が辛いなら、一度離れてみるか」
 他人事のようにサラリとそう言ってのける哪吒に楊戩は拳を握りしめた。"あの時"もそうだ。どうしてそんな簡単に、そんな事を言ってしまえるのか。
「なんでもかんでも僕の言う通りにして、あんな風に抱かれても抵抗さえしないくせに、僕が辛いって言ったら今度は平気で離れられる程度なわけ?」
「……」
「哪吒ってやっぱり、自分を大事にしない癖があるよね」
「っな……」

 ――違う、こんな事が言いたいわけじゃない。ただ、悲しくて……。

 それに一体どの口が言っているのか、と自分自身にため息を吐いた。哪吒はしばらく俯いて押し黙っていたが、楊戩と目を合わさないまま少し 後退 (あとずさ) り距離を取る。それは何気ない動作だったが、心の距離を測られたように感じられて楊戩の心はザワめいた。
「"あれ"は自殺じゃないと……説明、しただろう」
 自虐的だと言われると、"あの時"の自分が出来る限りの努力を費やして守ろうとした大切な母との約束までをも否定されているような気分になる。その楊戩の言い草にはさすがの哪吒もあからさまに傷付いた表情を見せた。
「……わかってるよ」
 楊戩にもその事はよく分かっている。それなのにこんな事を言ってしまう。本気で思っているわけじゃないのに自分で自分が抑えられなくて、余計にイライラする。最近は養父である玉鼎に軽く声をかけられただけでも何故か無性にムカムカして「うるさい」だなどと言ってしまう自分がいるのだった。
「少し頭を冷やせ」
 そう言われて楊戩は思わずカッとなった。僕たちは同い年なのに、まるで聞き分けの悪い子供に対する態度じゃないか……と。そして実際そうなのだから始末が悪い。
「そうだね、僕はいつも感情に振り回されてる」
「楊戩……?」
 低い声でそう言いながら大股で哪吒に歩み寄りその腕をパッと掴んだ楊戩の目が据わっていて、不穏な気配を察した哪吒は咄嗟に振り解こうと力を込めたが、ギリギリと手首を捻りあげられて小さく呻く。
「放せ、楊戩」
「何で?いつでも僕の言う通りにするじゃないか」
「そういうわけじゃ……」
「脱いでよ、早く」
 空いている手で肩を押し返すが、静かにキレている楊戩は遠慮のない力加減で乱雑に哪吒のズボンのボタンを外し下着ごとズリ下ろした。逃げようと抵抗する哪吒のもう片方の手も掴み、近くの長机にガタガタッと押し倒す。
「うっ……!」
「あーイライラする……」
「楊戩、やめっ」
 マウントポジションを取られた不利な体制で両手首を一纏めに押さえつけられ、シャツのボタンも外されていく。
「いやだ、楊戩、こんなのは…!」
 抵抗しない哪吒に腹が立っていたはずなのに、今度は「いやだ」「やめろ」と言われて酷く苛立った。
「楊戩……!」
「うるさい、ちょっと黙ってよ」
「う、っ……う、あっ!」
 軽く舐めただけの指を何の前触れもなく後孔に差し込まれ、ひゅっと哪吒の喉が引き攣る音がした。
「あっあ、い……っづ、ぅ……!!」
 哪吒はあまりの苦痛に固く目を閉じて首を振るが、楊戩は止まらない。それどころかすぐに指を2本に増やし、哪吒の直腸をグイグイと押し上げる。
「大丈夫だろ、昨日だって散々こうして広げたんだから」
「う……っ!」
 そして指を引き抜き自身の陰茎を押し当てる。ローションは付けていないし、もちろんゴムもしていない。
「よ、ぜんっ…!やめ……」
「うるさいってば」
 持ち上げられた足に楊戩の指が食い込み、グッと体重がかけられた。その瞬間、哪吒の中で何かの糸が切れるような感覚がした。
「楊戩……!!やめろっ!!」
「……っあ」
 聞いたことのない哪吒の絶叫に楊戩はハッとした。その瞳からボロボロと涙がこぼれ落ちるのを見て、頭にのぼっていた血がスーッと引いていく。まさか哪吒が泣くなんて想像さえしていなかった自分に気がついた。
「ひっ…、う……っ!」
「な、哪吒」
「いや、だ……っ、……う…」

 我に返った楊戩は途端に慌てるが、哪吒は解放された両腕をすぐに顔の前で組んで隠してしまう。息を詰めて引き攣るように哪吒は「平気なわけない」と漏らした。その涙に濡れた声に楊戩は激しく後悔した。平気なフリをしていたが、楊戩の態度に哪吒はずっと傷付いていたのだ。そんな当然のことに今更になって漸く気が付いた。
「っ、ふ、う……うっ……」
 はだけさせた服やズボンを整えながら、ただ何度も「ごめん」と呟く。
「哪吒、ごめ」
「……もういやだ」
 その言葉に楊戩は目の前が真っ暗になった。酷い事ばかりしてきた自覚はあったが、心のどこかで自分は哪吒に絶対に拒絶されないと本気で思っていたのだ。
「な、たく……」
「オレは、お前の笑顔が見たいだけなのに」
 その気持ちは二人とも同じはずだった。それなのにどうして怒ったり泣かせたりしてしまうんだろう、と楊戩は自分の言動を悔やむ。こんなに好きで堪らない相手と一緒にいられるだけで幸せなはずなのに、そういえばもうずっと笑っていなかった気がする。
「ごめん」
 しばらくして泣き止んだ哪吒にどこも怪我してないか尋ねるとまだ小さくしゃくり上げながらコクリと頷く。しかしとても教室に戻れそうには無かった。
「少しひとりにしてくれ」
「うん……先に戻るね。もう帰る?鞄持って来ようか」
「いや、いい」
 こんな状況のまま離れることが不安ではあったが、哪吒に言われた通り今は頭を冷やした方が良いのだろうと思った。


 ***


   それからしばらく二人は関わらずに学校生活を送っていた。近くにいるのに話せない寂しさはあるが、1週間もすればお互いに他のクラスメイトとばかり過ごす日常にも慣れて、不意に楽しそうにしている笑顔が見られたりするとそれだけでも胸が暖かくなる気がする。
 あまりにも悲しい記憶につい感情が振り回されてしまったが、本来であればこんな風に穏やかな日常の中で、哪吒の笑顔が見られるだけでも十分嬉しかったはずなんだ。と楊戩は思い返した。
「哪吒」
「ム」
 仲良しの武吉や雷震子と廊下で話している哪吒に、久々に楊戩から声をかけた。
「なんだオメーらケンカしてんだろ?休戦協定か?」
「うん、申し込みに来た」
「別にケンカしたわけじゃない」
 穏やかな様子の楊戩に対し哪吒も柔和な態度でいる。そうして二人はしばらくぶりに並んで帰路へ着くのであった。


***


 この半年ほどですっかり通い慣れた楊戩の部屋に入り、いつもの定位置であるベッド脇の床へ腰掛ける。楊戩はその隣に腰を下ろして少し照れたように哪吒の手を握った。
「まず、ごめん。その……漠然としてるけど、色々と。哪吒の言う通り、少し離れてみて気持ちが落ち着いたよ」
 話せないのは寂しかったけど、離れてても哪吒が消えたりしないって思えた。という楊戩に哪吒は「何の心配をしているんだ」と呆れたように少し笑う。
「オレもお前と永遠に離れたいとは思ってない」
「うん」
「ただ今はオレが近くにいるせいでお前が笑えないなら、一度距離を置いてみるのもいいかと思っただけだ」
「そうだね……」
 二人はそうして手を繋いだまま、取り止めもなく色々な事を話した。悲しい話ではなく、他愛ないような事を。もう何度も体を重ねているというのにこんな風に甘い空気を感じるのは初めてで、妙に照れるような気がした。


 ***


「そろそろ帰る」
 哪吒は時計を見てそう言い立ち上がった。酷いことをしてしまったり言ってしまった事を改めてきちんと謝りたかった楊戩は少し 躊躇 (ためら) ったが、部屋を出ようとするその背中に意を決して声をかけた。
「……な、哪吒、待って!」
 すると不意に楊戩に腕を掴まれて振り返った哪吒の腕が近くにあった本棚に軽くぶつかった。その揺れでパタパタといくつかの本が倒れ、落ちてくる。
「楊戩っ」
「わ」
 楊戩の頭に当たりかけたそのひとつを哪吒が咄嗟に手を伸ばしてキャッチしたが、突然抱き込まれて思わず取りこぼし、ドサッと本の落ちる音が部屋に響いた。
「……?どうした……」
 哪吒は痛いくらいに抱き締められて楊戩の様子がおかしい事に気が付く。降ってきた瓦礫からこんな風に哪吒に庇われた"あの瞬間"が楊戩の中で何度もフラッシュバックしていた。
「は……っはぁっ、はぁっ……!」
「……楊戩、大丈夫だから、落ち着け」
 「いやだ」と 譫言 (うわごと) のように繰り返しながらガタガタ震えている楊戩の背中をただ優しく撫でる。
「楊戩」
 腕の間からなんとか顔を上げてその様子を確認すると楊戩は酷く怯えていて、どこか遠くを見ているような焦点の合わない目をしていた。
「楊戩、オレを見ろ」
「はっ…はぁっ、う……哪吒……っ」
「今のオレを見てくれ」
 その穏やかな声と言葉に少しずつ落ち着きを取り戻した楊戩は腰が抜けたようでズルズルとその場にへたり込んでしまい、哪吒も一緒に膝をつく。
「大丈夫だ、ここにいる。どこも壊れてない」
「君が好きだ……どうしようもなく、好きなんだ……」
「……ああ、知ってる」
「大事にしたいのに……怖いよ…!」
「楊戩……置いていって、悪かった」
 哪吒は優しく慰めるように楊戩を抱きしめた。

 ――置いていかれる側の気持ちは、オレも痛いほど知っている。

 母を喪ってから哪吒は400年以上ずっと孤独だった。太乙は何かと世話を焼いてくれたが、友達や家族ではなかった。表面的には独りでの暮らしに慣れていく代わりに、心の奥底の悲しみや寂しさはより深まっていく気がした。
 更に楊戩にはまだ意識のある哪吒を置き去りにして立ち去るというあまりに辛い選択を無理強いした。あの後の最後の3ヶ月を楊戩がどんな気持ちで孤独に過ごしたのかなど、想像するだけで哪吒も辛くなるほどだった。
「楊戩、泣くな」
「……っ」
「これからはもう泣くような事は起きない」
 そう言って哪吒がその (まなじり) に口付けると、堪えていた涙が落ちた。


 そうしてしばらく哪吒の腕の中でしおらしく泣いていた楊戩だが、気持ちが落ち着いてくると今度は久々に感じるその体温と哪吒の体から不思議と漂う独特な甘い香りに劣情が沸き起こってしまう。
「ム……こら」
「ご、ごめん、あの……ほら、ちょっと元気出ちゃって」
 恥ずかしそうにそう言う楊戩に哪吒は珍しく「フッ」と吹き出して笑った。
「元気なら仕方ないな」
 お前が元気ならオレも嬉しい、と言って哪吒は風呂借りるぞと部屋を出て行った。


 ***


 哪吒と入れ替わりに軽く汗を流しに行った楊戩はついでにリビングのカレンダーで玉鼎の仕事の時間を確認した。最低でもあと3時間は帰ってこないはずだ。
「……僕って……」
 ゲンキンなヤツ。と自らに照れ笑いながら部屋へ戻ると哪吒は下着だけの状態でタオルを肩にかけ、ベッドの真ん中にあぐらをかいて待っていた。
「そのままの格好で待ってたの?風邪ひくよってば」
「大丈夫だ」
「もー……」
 部屋の電気を常夜灯に切り替え、自身もいそいそと羽織っていたシャツを脱ぐ。哪吒がじっと見ているのが分かったのでなんとなくズボンを脱ぐのが気恥ずかしくて後回しにした。シャツを机に置けば両手を広げて迎え入れられ、素直に飛び込む。
「はあ、1週間ぶりの哪吒だ」
 頭に鼻先を埋めると「頭は洗ってないからよせ」と押し返されたので、その背に手を当てて支えながらゆっくり押し倒すと哪吒は大人しくされるがまま横になった。
「こうしてるだけでも幸せかも……」
「ム」
 温かい素肌同士で触れ合うだけでも充分な多幸感に包まれる。二人はしばらくの間、そうしてただ静かに互いの体温を確かめ合うように抱き合っていた。
「……なたく」
「このまま眠るか?」
「それもいいけど、今日は我慢できない」
 パッと体を起こして何度か遊びのようなキスをすると哪吒は「いつもそれくらい素直でいろ」と笑った。




異世界パロ

異世界パロディの楊戩×哪吒の物語です。

本編:全10話

▼第一話 『戦え、それが自由への道』

 ――まず、この"世界"についての説明が必要だろう。

 ここは簡単に言ってしまえば、"ファンタジー物語の舞台"のような世界。とはいえ、空には常に暗雲が立ち込めている……わけではなく、暗い森にモンスターが 蔓延 (はびこ) っている……わけでもない。ただ電気やコンクリートが存在せず、その代わりに少し不思議な力が使えたり、不思議な出来事が起こったりする世界。

 世界には光に溢れた"昼の時間"と草木さえも眠る薄暗い"夜の時間"が存在し、一つの大きな海に一つの大陸が浮かんでいる。そこでは石や木や、泥を捏ねて作ったレンガを使って道を作り家を建てて人々が慎ましく生きていた。

 そしてそんな世界に暮らす人の姿形は様々で、全身毛むくじゃらで大きな耳に長い鼻をもっていたり、ツルツルとした外殻に6本の手足が生えていたり、柔らかい皮膚に手足が2本ずつであったりする。またその出自は様々で親から生まれたり、分裂したり、石が割れて生まれたり、強い感情から生まれたりもする。彼らに寿命は無く、その命は基本的に永遠であるため、怪我や病気でしか死ぬ事がない。

 ただ、どんなに姿形が違っても全ての人々に共通している事は『昼行性であること』『飛翔能力を持たない事』という2点であった。この理由については、まず"世界の支配者"について触れなければならない。

 女媧――それが、この世界の支配者の名前だった。

 この世界には常に絶対的な支配組織があった。その支配者に定められた"世界条約"に従って時間が存在し、国が存在し、街が存在し、生き物が存在する。つまりこの世界の住人たちはあくまでその支配者の意図する秩序の中でしか生活が出来ないように監視されているのである。

 "世界条約"には厳しいルールが細かく設定されており、違反者には容赦なく死が与えられる。これは彼女が決して全知全能ではないため、意識を向けていない場所や眠っている間に起きている出来事を察知することが出来ないが故の対策である。
 そう、彼女は人々がバベルの塔を築く事を徹底的に防ごうとしていたのだ。


 ***


「あれ……これ、また壊れちゃったの?」
「ム」
「太乙真人さまに見てもらわなきゃね」
 ここはそんな"世界"が作られた当初から存在する二大大国のひとつ、崑崙の中央都市から少しだけ離れた場所。賑やかな中心街からそう遠くないにも関わらず、空気が穏やかで長閑な草原の広がる景色にポツンと建てられた小さな一軒家に、哪吒という一人の赤毛の少年が暮らしていた。

 そんな哪吒の家に150年ほど前から居候をしているのがこの長い青髪をひとつに纏めた長身の青年、楊戩であった。
 楊戩は家の前で何やらバイクのような形をした大きな機械を弄っていた。それは"魔導乗機"と呼ばれる乗り物である。人々は自らの体に流れる魔力をさまざまな魔導機に流し込み使用する事で日々の生活を便利にしていた。
 この世界には電力やエンジンは存在せず、全ての機械の動力は個人個人の魔力によって賄われている。なので我々の世界における飛行機や電車のような自動で動く大きな機械というモノは存在しないのであった。
「仕方ないな、じゃあ歩いて行くしかないね」
「遅れると太公望に連絡しておく」
「うん、ありがとう」


 そうして揃って出かけた二人がたどり着いたのは中心街の更にど真ん中に位置する、真っ白でこの世界に存在するには違和感しかない妙に近未来的なデザインの巨大施設だった。
「よお遅かったな、朝の鍛錬はもう終わる所だぜ」
 中に入ると背に黒い翼を背負った少年が話しかけてきた。彼は雷震子。翼は本物ではなく、これも乗機の一種である。その中でも飛翔機能を持った特別なモノであった。
「ごめん、また移動用の乗機が壊れちゃって」
 申し訳なさそうにする楊戩と無表情のままでいる哪吒に黒い棒状の武器を手に持った天化、そしてどこか薄汚い服装に身を包んだ韋護という青年二人がそれぞれエアボードのような形の乗機に乗って飛んできた。
「ったく、二人とも大将を任されてるってのに、責任感が足りてないさ」
「そう言われると辛いな」
 "大将"……そう、雷震子と天化、韋護は全員この施設……鍛錬場内で今まさに戦闘訓練を行っている崑崙軍の大将であった。そして楊戩と哪吒も。今この世界では崑崙と二大大国のもう片方、金鰲という二国間における全面戦争がもう200年も行われていた。
「次の戦いまでいよいよひと月を切ったな」
「韋護くん、太公望師叔は?」
「武吉君と表で何か話してたぜ」
 ローラーブレードのようなタイヤがついたブーツ型の乗機を足に装着している哪吒を横目でチラリと見て、楊戩は鍛錬場の隅にリードで繋がれている哮天犬と名付けた生物型の乗機に手を伸ばす。哮天犬は嬉しそうに尻尾を振り、楊戩の頬を軽くひと舐めした。
 雷震子が時計を見て模擬戦をしている兵士たちの頭上を素早く飛び回り「止め」の合図を出す。これからしばらく昼休憩の時間であった。
 飛翔機能を持つ乗機……飛翔魔導機は全ての国を合わせてこの世界に30機しかないとされている。そしていま崑崙にはそのうち8台の存在が確認されていた。
「なんか実感がわかねえな」
「ム」
「仕方ないさ、雷震子と哪吒はこれが初陣なんさ」

 この世界の戦争は先述の"世界条約"により実施規定が定められている。

 ・"闘争"は50年に一度行われる事
 ・指定の戦闘フィールド内にて戦う事
 ・1人の総大将と6人の大将が飛翔魔導機に乗り、それぞれが300人の地上兵を引き連れる事
 ・戦場で敵国の兵と出会えば、どちらかが戦闘不能となるまで争う事
 ・明らかに決着がついた場合のみ、降参が許可される

 ……と、細かいものを上げればキリがないが、基本的にはこのような事である。

 崑崙軍の総大将は先ほど楊戩が呼んだ太公望と呼ばれる軍師、大将たちは楊戩、哪吒、天化、雷震子、韋護、そして今ここにはいない武吉という快活な少年であった。そして韋護の発言通り、次の"闘争"は眼前の翌月に迫っている。この50年間、人々は来たる戦いの時に向けて日々鍛錬を繰り返してきた。
 そんな鍛錬場へ元気よく (くだん) の武吉が飛び込んできた。
「楊戩さん!哪吒さん!おはようございます!」
「おはよう武吉くん、太公望師叔は?」
「国際会議で通信室へ篭られました」
 張り切って自身のブーツ型魔導機を足に装着している武吉に楊戩は「昼休憩だよ」と声をかけた。


 ***


 この世界では全ての国の長を集めた国際会議が定期的に行われていて、戦争中であっても必ず代表者が1名は出席しなければならない事になっている。それが"世界条約"により決められたルールであった。
 その国際会議にはいわゆるオンライン通話のような技術が使われていて、実際に集まっている訳ではない。しかしそれぞれの国に女媧が設置した"通信室"には代表者たちの姿がホログラムで立体的に表示される装置があり、円卓に全員が座っているように見えた。
 当然、これはこの世界には無い技術だった。女媧が持ち込んだ別世界のテクノロジーである。軍の鍛錬が行われている建造物もそのひとつであった。
「これで全員ですか?」
 進行役の女性、邑姜は姜という小さな国の王女だ。姜国は小国でありながらも団結力があり、一目置かれている存在だ。崑崙からはこの世界に国が興された当初からの長である原始天尊とその弟子の太公望が。金鰲からは原始天尊と同じ立場の通天教主がおらず、側の総大将である聞仲のみが出席していた。
「さっさと始めよーぜ!ウチは特に何にも報告ねーよ!」
 周国の王、姫発がいつものように元気な声を上げると隣にいる弟であり目付け役の周公旦が「小兄さま、静かに」とその頭をスパンと叩く。いつもの光景であった。
「今月は金鰲からは条約違反による罰死者が18人出た。異例の数字だ」
「崑崙からも3人じゃ」
「そうか……。金鰲と崑崙の闘争はもう来月なのであったな。国内も荒れているか」
 報告を聞いた殷国の紂王が「魂の回帰を願おう」と祈ると全員がしばし黙祷した。この世界では肉体を失った魂は浄化された後にまた新たな肉体を得て帰ってくると信じられている。
 そうして国内事情の報告やそれぞれの国に対する質疑応答がされ、頃合いを見て邑姜がパンと手を叩いた。
「女媧さまはこの世界の創造主であり、私たちはその加護の (もと) で暮らしている。その事を引き続き、各々心すること」
 心が篭っているのかいないのか、その平坦な表情からは推し量れない。ただ、このように締めくくっておくことが一番の"安全策"であった。
 通話が終わるとその録画データが即時女媧へ送られる事になっている。太公望は聞仲に接触したかったが、この見張られている環境下で彼は何も話してくれないだろう。


「原始天尊さま。わしはこの戦争が正しいのか、未だに分からんのです」
 太公望はこの闘争が避けられない事であったとしても、せめて犠牲者は最小限にしたいと考えていた。そしてそれは聞仲も同様である事を知っている。
「力比べをさせたいだけなら、大将戦のみで充分ではありませんか」
「言うな太公望。聞かれておるかもしれん」
 そして当然、原始天尊も気持ちは同じである。だがそうはいかない。"世界条約"によって全面戦争は義務であった。更にそんな太公望たちの考えに反して民たちは互いに強く憎しみ合い、むしろ血気盛んに闘争の日を待ち侘びてさえいるのであった。
 崑崙、金鰲の各地で不可解な人死や事件事故が多発し、相手国が条約違反を侵して手出しをしてきているのだとお互いが思っているのだ。
「もはや止められん。今や条約違反による手出しはお互い、事実に"なってしまった"のじゃ」
 金鰲の仕業と決まった訳ではないと太公望は何度も声を上げたが、結局民たちの怒りを止めることは出来なかった。
「これ以上、戦争を長引かせない事……今回の闘争で融資を決する事が、犠牲を最小限に抑える方法であろう」
「……」


 ***


「よせ、これ以上の"闘争"以外の手出しをするな」
「しかし最初に手を出したのはあちらです!」
「あれらの事件事故が崑崙軍の仕業であるという証拠は無かったはずだ」
「では他に誰があんなことを!」
「聞太師がそうして甘い顔をするから崑崙軍がつけあがるのです!」
「不要な争いを求めるな。いずれにせよ戦う日はやってくる。来月の闘争を待て」
「今こそ力の差を見せつけるべきです!」
「聞太師!」
「条約違反で罰死する覚悟なら皆できております!」
「通天教主様を拐かすような卑怯者どもに鉄鎚を!」

 国際会議から戻った聞仲はすぐ部下たちに囲まれてしまった。冷静になれと諭しても無意味で、思わず深いため息を漏らしながら執務室へ戻る。あと少しでやってくる闘争の時を待たずして真正面から攻撃をしかけ始めそうな勢いまである。何故ここまで彼らが急き立てられているのか、聞仲には分からなかった。
「全く……どうしたものか」
 戦いは避けられずとも、せめて少しでも犠牲はなくしたい。それは太公望も同じ思いのはずだ……。聞仲はそう考えていた。国際会議では女媧に目をつけられぬ為、面と向かって話す事は避けている。しかしこの戦争が始まるより以前の交流にて、彼の人となりは知っているつもりであった。
 だが闘争を目前にして興奮状態の民たちに聞仲の声は届かない。頭を抱えながらもあれこれと対策に講じる聞仲の所へ傾国の美女、妲己が現れた。
「聞仲ちゃん、そんな事したって無駄よん」
「黙れ女狐。同じ軍に属しているとはいえ、私は貴様を味方だとは思っていないぞ」
「聞仲ちゃんや太公望ちゃんだけが立ちはだかったところで、大きな川の流れが止まるわけないわん」
「しかし他にどうしろと言うのだ」
 そう尋ねられて妲己は口元の笑みは絶やさないまま、瞳を怪しく煌めかせた。
「川の流れを止めたい時はね、水源を止めちゃうのよん……♡」
 不穏な発言に聞仲は顔を上げ妲己を睨みつけた。
「貴様……何を企んでいる」


 ***


 一方、鍛錬場へ戻った太公望も聞仲と同じように天化たちからの質問攻めにあっていた。
「やっぱり先週の爆発は金鰲の仕業だったんさ!?」
「熱くなるな天化。実行した者は既に罰を受けておる」
「やっぱ戦いは避けられねえか」
「韋護テメーこの期に及んでまだ言ってんのか?この前だって東の方の村に突然奇襲がかけられただろーが!」
「俺っちも雷震子と同意見さ、そもそもこの戦争自体が金鰲の言いがかりが始まりなんさ」
 戦争のきっかけ……それは200年前に通天教主が突如消息を絶った事だった。もともと歪みあっていた崑崙と金鰲の関係性から崑崙の反抗と決めつけられ、金鰲が女媧に戦争の申し立てをした事が始まりであった。
 まだ若い天化、武吉、雷震子、哪吒らはその頃の事を直接は知らない。ただ崑崙国民たちは口を揃えて「金鰲のでっちあげだ」と主張するので、それをずっと聞いて生きてきたのだった。
「うむ……しかし実際に通天教主の見つからない今、絶対は無い」
 崑崙内でも当時から今に至るまで通天教主の捜索は常に行われているが、未だに見つかってはいない。ただ、何度か通天教主の物と疑われるマントの切れ端や靴が発見された事があり、金鰲はますます疑いを確信に変え、崑崙は証拠の捏造だと騒ぐ。
「血の気の多い金鰲の奴らがオレ様たちと争うために描いた作り話だろ!」
「こんなに探してるのに、見つからないとなると……確かにちょっと疑っちゃいますよね」
 普段は国同士の問題に口を挟まない武吉までもがどことなく不満そうに呟いた。戦いを前にして、全員がナーバスになっているのも仕方のない事であった。
「……楊戩?」
 その様子を空中から見下ろしていた哪吒は楊戩が黙り込んでいることが気に掛かった。
「あ、哪吒……どうかした?」
「こっちのセリフだ。何かあったか」
「なんでもないよ、本当に戦う日が近付いてるんだなぁって、ちょっと考えてたんだ。それより、ずっと飛んでたら疲れない?」
「平気だ」
 ふわりと下降してきた哪吒はまるで手足のように乗機を乗りこなしているが、これは並大抵の事ではない。まず浮かび上がれるだけでも超人的な量の魔力が必要で、更に意のままに制御するなど、一般人には考えられもしない事だ。
 そのため大将であっても誰しもが普通は必要な時以外の魔力の消費は抑えるように動く中、常に空中を平然と漂うほど哪吒は莫大な魔力の持ち主であった。
「ええいとにかく、定められた"闘争"以外に個人的な感情で動くでないぞ」
「おう、わかってら!」
「そこは信用してくれよな、親父たちだってちゃんと分かってるぜ」
「うむ、そうであったな」
 天化の父親、黄飛虎はこの戦争が始まる前には聞仲と酒を飲み交わす仲であった。彼も今の状況には違和感を覚えている。3度目の闘争で負傷してしまってから兵役としての一線を退いてはいるが今も民からの信頼は厚く、金鰲に対して民に余計な手出しをさせないよう計らってくれている。
 まだ若く喧嘩っ早い所を懸念されてはいるが、黄飛虎が抜けて空いた大将の席のひとつを天化が埋める事になったのだった。
「そろそろ午後の鍛錬の時間だね。遅刻しちゃった分を取り戻そうか、哪吒」
「ム」
 哪吒は楊戩の様子がまだ少し気がかりではあったが、ニコリと微笑まれて照れたようにふいと顔を逸らした。そんな二人に気が付いた太公望はジトリと睨みつけながら釘を刺すのであった。
「楊戩、哪吒!お主ら次に遅刻して来おったら揃ってこの鍛錬場に引っ越しだぞ!」
「断る」
「テントと寝袋は支給して頂けますか?」

▼第二話 『何も知らない、何も聞かない』

「うむ、今日はこのくらいでよいじゃろう」
 そう太公望が言い、それぞれの大将は自らの隊の兵たちを止めさせた。「暑い!」と叫んで雷震子は翼を外し、武吉と天化もエアボードを放り出し、我先にと汗を流しに鍛錬場を出て行く。そんな様子を平然と見送って汗を拭きながら韋護と楊戩はまだ高い場所をふわふわと飛んでいる哪吒を見上げた。
「哪吒はやっぱ地上兵を連れていると動きが悪くなるねえ」
「ずっと飛び続けていられる哪吒からしたら、彼らは守らなきゃいけないお荷物でしか無いのかもしれないな」
「哪吒隊は実質、太公望の隊と合流しちまえばいいんじゃねーの」
「まあ、それでルール的に問題ないなら、試してみてもいいかもね」
 いずれにせよ、太公望は犠牲を最小限にする為に大将戦になる事を望んでいる。機動力も攻撃力も申し分ない哪吒が特攻し、その隊を引き受けた太公望が総大将として後ろに控えていられるなら悪くないと考えた。
「でも空中対地上になって圧倒的に哪吒の方が有利とはいえ、さすがに300人の戦力差は危険か?飛び道具で一斉に狙われたら格好の餌食だもんな」
「それでも哪吒なら大丈夫そうな気もしちゃうけど……」

 そんな会話をしている所へ魔導機や武器防具のメンテナンスを担当している太乙真人と医療班を引き連れた雲中子がやってきた。
「怪我人はいないかい」
「みんなー、メンテするから乗機を見せてくれ」
 床に転がっている雷震子の翼や天化のエアボードなどを拾い集めながら哪吒に降りてくるよう声をかけている太乙を見て、楊戩は家の乗機が壊れていた事を思い出した。
「太乙真人さま、あの……また (ウチ) の乗機が壊れてしまいまして」
「ええ、またかい!?哪吒、お前が必要以上に魔力を流し込むせいだぞ!」
「ム」
 太乙は近寄ってきた哪吒に小言を言うが反省した様子はなく、足から外した魔導機を無造作に押し付けられて怒りつつ受け取る。
「哪吒の魔力は無尽蔵ですからね」
「どうなってるんだか、全く……」
 激しい鍛錬にも疲れた様子さえ見せない小さな背中を見送って太乙と楊戩は首を傾げた。
「まあいいや。じゃあ後で合流しよう。とりあえず楊戩も汗を流しておいで」
「はい、哮天犬をよろしくお願いします」


 ***


 その後、汗を流してから太公望たちは揃って夕飯を食べていた。
「にしても、哪吒の魔力量ってどうなってんだ?」
「疲れた様子も見せねえさ」
 木のスプーンさえ持ち上げるのが億劫なほど雷震子と天化はもうすっかり疲れた様子で、一方でケロリとしている哪吒を見て奇妙そうに首を傾げる。
「哪吒は蓮の花から生まれたんだったか?」
「ム」
 韋護の質問に素直に頷いて黙々と食事を続ける哪吒に隣の席の楊戩が「ふむ」と考え込んだ。
「動物や岩や概念から生まれたのともまた違って、花というのは水や大気からエネルギーをもらえたりするのかな」
「そうだのう、こやつの力の源は何か特別なようじゃ」
 とはいえ立ち回りがまだまだなっとらんのう、と太公望は 揶揄 (からか) うように哪吒の赤毛をくしゃくしゃに掻き乱す。
「やめろ」
「哪吒、お主は色々な事を考えながら戦うのは向いておらん。明日の鍛錬では誰の事も気にせずに一人で飛んでみるがよい」
「お師匠さま!でもそんな事したら、他の隊の地上兵から狙い撃ちにされませんか?」
「モノは試しじゃ」
 何やら太公望には考えがあるようで、さっと食事を済ませるとどこかへ立ち去って行った。楊戩と韋護はチラリと目を見合わせるだけで、その件に関しては何も言いはしない。その代わりに話題を切り替えることにした。
「今回の闘争は大きな区切りになりそうな気がするな」
「そうだね、これが最後の戦いになればいいんだけど……」
 今の崑崙、金鰲間の戦争においての闘争は来月のもので4度目になる。その中でも2度目は実に激しく両者の部隊に大きなダメージを与え合うものだった。
「前回はお互いパッとしない感じだったけど、今回は金鰲も立て直してるだろうな」
「とはいえ、こっちには楊戩と哪吒が増えたのが大きいさ」
「おい!オレ様と武吉だって超強力な戦力だろうが!」
「自分で言うなよ」
 韋護は呆れたように笑うと「んじゃ俺は先に帰るぜ」と食器を手に立ち上がった。
「何度体験しても実戦なんて慣れないもんだが、それにしても初陣は特別だ。いくらこいつらが強いからって、哪吒と楊戩にばっか頼らねえようにしようぜ」
 韋護はこの戦争が始まる前から崑崙に暮らしているが、参戦は2回目からで今回が3回目の戦いになる。元々は燃橙という強戦士の埋めていた席に無理やり座らされる形での参戦であった。今その燃橙は「この戦いはまるで支配者を楽しませるための見せ物だ」と嫌悪感を隠しもせず、女媧の影響の及ばぬ場所へ身を隠している。
 崑崙には他にも申公豹という人物がいたのだが、彼もまた何やらこの世界の仕組みに嫌悪感を示し、その姿を消して久しい。そして国家レベルで管理されるはずの飛翔魔導機を1台所持しているという噂もあった。


 ***


 食事を終えた楊戩と哪吒が太乙のラボを訪れると、ちょうどメンテナンスを終えて凝った肩をくるくると回してひと息ついている所だった。
「やあ、お疲れ様。じゃあ行こうか」
 当然のようにお手製の乗機、黄巾力士に二人を乗せようとする太乙に楊戩は遠慮した。
「三人で乗ると走らせるのが大変でしょう」
「いいよ、その代わり途中で交代してくれたら」
 そんな二人の会話を横で聞いていた哪吒は「オレが動かす」と操縦桿へ手を伸ばしたが即座に止められる。哪吒はその魔力量の膨大さ故に本人はほんの少しのつもりでも必要以上に魔力を流し込みすぎてしまう。そして魔導機をパンクさせてしまうのだった。
「絶対に壊すからダメだ!!」
「ム」
 そうして太乙の運転で黄巾力士は走って行く。三人も乗っていてはさすがにゆっくりしか動かないが、それでも歩くよりはずっと早い。
「……だから、魔力を流せば流すほど速く動くってわけじゃないのが私にだってジレンマなんだよ」
「何故そうならない」
「どんなに巨大なタンクがあったって蛇口から出る水の量は決まってるだろ?それどころか、出ていく速度より溜まる速度の方が上回りすぎるとタンクは爆発してしまう。そういうことさ」
「キサマの話はちんぷんかんぷんだ」
「もういいや。楊戩、君が運転してよ」
 そんな会話を横で聞きながらくすくす笑っていた楊戩は運転を代わり、再びコトコトと黄巾力士を走らせた。
「いつか哪吒の魔力量に耐えられるコンプレッサーを作って世界で一番早い乗機を作ってみたいな」
 哪吒が乗っている飛翔魔導機の"風火輪"に特別に付けられている哪吒用のリミッターは非常に高価で、ほいほいと何にでも付けられる代物ではない。
「君たちの乗機、今から行って直すけどさ。なるべく楊戩が運転するようにしてよ。じゃないとどうせまたすぐに壊しちゃうんだから、この子は」
「うるさい」
「世界一早い乗機もいいけど、この戦争においては……哪吒の魔力を全部受け止めてそのまま出力できるような武器が作れたら、一人で敵軍全部吹き飛ばせちゃうかも」
 太乙はそう呟いて、ぼんやりとそんな最強の武器を実現する方法はないだろうか……と思案するのであった。


 ***


 ようやく家に帰ってきた楊戩と哪吒は太乙が表で乗機を修理してくれている間にラフな格好に着替えてひと息をつき、リビングのソファに並んで腰掛けると修理の音が鳴り止むのを待った。
「今日も疲れたね。コーヒーでも飲む?」
「いい」
「じゃあジュース飲む?」
「いい」
 態度も返事も実にそっけないが、楊戩はすっかり慣れた様子でニコニコと隣に座るその頭を撫でたりしている。哪吒も態度は悪いが別に怒っているわけではないのか、それを無表情のまま受け入れていた。
 そうして二人が何を話すでもなく静かに過ごしているとやがて表からガタガタと物音が鳴り、しばらくして太乙が扉を開いた。
「やっぱりエネルギータンクが壊れちゃってたよ。取り替えておいたからもう普通に動くけど、くれぐれも1週間以内に壊さないように」
「ありがとうございます」
「ム」
 無事に乗機が走る事を確認してから、楊戩はそれを家の前に停めて哪吒に向き直った。
「哪吒、僕が運転するからどこか行きたい時は言ってね」
「買い物くらい自分で行く」
「それでまた壊しちゃうから!」
「……」
 太乙はそんな二人のやりとりをどこか微笑ましげに見つめ、軽く挨拶を残すと帰って行った。それもそのはず、楊戩が現れるまでの哪吒は絵に描いたような一匹狼で、まさかこんな風に誰かと一緒に暮らして仲睦まじくしている姿など誰にも想像が出来なかった。
 前述の通り頻繁に魔導機を壊してしまう哪吒の面倒を必然的によく見てきた太乙からすれば、こうした哪吒の社交的な部分の成長が純粋に嬉しいのであった。これはもはや親心のようなものである。


 ***


 そして、そんな楊戩と哪吒が出会ったのは今から15年ほど前のとある明け方の事。その日もいつも通りに鍛錬場へ向かおうとした哪吒が家を出ると玄関先に倒れていたのが楊戩だった。
「……おい、死んでるのか?」
「う……」
 さすがの哪吒も放っておけずに声をかけると楊戩は目を覚ましたが、どうやら混乱しているようだった。どこから来たのか尋ねても「思い出せない」名前を尋ねても「楊戩……だった気がする」といった具合。つまり記憶喪失のようであった。しかし、もしかしたら"生まれたばかり"という可能性も否定は出来ない。
 何故ならこの世界において"誕生、成長"というものは必ずしも乳児期、幼児期を通るとは限らないのであった。哪吒自体も蓮の蕾が開いた時にその中から子供の姿で生まれたのである。
 怪我をしている様子はなく、少し怪しいと思いつつも哪吒は弱っている様子の楊戩を自らの家へ招き入れ、柔らかいベッドを貸してやった……それが二人の出会いだった。
 数日後、記憶を取り戻すヒントがあるかもしれない、と哪吒は少しずつ元気になってきた楊戩を鍛錬場へ連れて行った。軍には雲中子も太乙もいる。検査をしてみる価値はあるだろう。
 結果的には残念ながら楊戩の過去に関する事や出自に関しては何もわからず終いであったが、そうして哪吒と共に鍛錬場に通っているうちに楊戩が非常に恵まれた魔力と戦闘センスの持ち主と発覚し、崑崙軍の大将として抜擢されるのにそう時間は掛からなかった。


 ***


 決して人当たりの良くない哪吒だが、不思議と楊戩とは馬が合うようで衝突する事もなく何年も共に暮らし、あっという間に年月が経ち、今では二人は自然とお互いを想い合うほどの関係になっていた。
「哪吒、ご飯まだ時間かかるから先にお風呂入っとく?」
「……ム」
「そのまま寝ちゃうよ、ほら早く立って」
 キッチンからリビングでまったりしている哪吒に楊戩が声をかけるが、もにょもにょと気の抜けた声が返ってくるばかりだ。戦時中とはいえ女媧による取り決めで争いのタイミングは決められている為、日常というモノはこのように全く平和なものであった。ともすれば1ヶ月後には戦いで命を落とすかもしれない事など忘れてしまいそうなくらいに。
「……哪吒、寝ちゃったの?」
 様子を見に来た楊戩は体が痛くなりそうな体勢で眠ってしまっている哪吒を見て困ったように笑った。
「無防備だなぁ」
 一見すると気難しい猫のようだが、その実、仲間思いで時には自己犠牲さえ厭わない性格を知っている。楊戩はそんな哪吒の事がいつも心配だった。
「疲れないなんて事ないよね」
 もしかしたら哪吒は皆の期待を感じ取って、疲れた姿を見せないようにしているのかもしれない。昼間は少し軽率な事を言ったかな……と反省しつつ、楊戩は寝台で寝かせてやろうと小さな体を優しく抱き上げた。こんな小さな体のどこにあんなエネルギーが隠されているのか。
「ム……じぶんでいく」
「すぐそこなんだから、甘えてよ」
 ふに、と額に軽く唇を押し付けられて「甘えてるのはお前の方なんじゃないのか」と言いつつも哪吒の目元が愛しそうに緩むのを見るのが楊戩は好きだった。
「僕に甘えられるの、好きでしょ」
「自信家だな」
「おかげさまで。癒された?」
「ああ、そうだな」
「どういたしまして」
 そして哪吒を寝台に下ろしてその上に自身も倒れ込む。哪吒は押し潰されながらも特に苦しそうな様子はなく、その背に手を回した。更にポンポンとあやすように背を叩かれて「うー」と心地良さそうな声を漏らす楊戩にふ、と小さく笑う。
「おい、風呂か夕飯なんじゃなかったのか」
「もうちょっとだけ……」
「確実に朝までそのまま寝るぞ」
 静かな部屋にくすくすと笑い声が響いた。

▼第三話 『我が敵は崑崙軍ども』

 その日も鍛錬場にはいつもの顔ぶれが集まっていた。太公望がパンと手を叩き、全体に指示を出す。
「では午後の鍛錬を始める。地上兵は太乙の元で乗機と武器の取り扱いの訓練、大将たちは飛翔魔導機による空中戦の訓練じゃ」
 この世界における遠距離の攻撃といえばもちろん銃火器ではなく、魔力で放ついわばエネルギー弾のようなものであった。崑崙軍ではそれを太乙が作った武器によって更に増幅し、命中制度を上げる事が出来るように研究と訓練がなされている。この遠距離攻撃には相当な体力が消耗されるため、そう何発も撃てるものではない。だからこそ一発一発を大切にする必要があった。
「よいか、皆も分かっていると思うが、飛翔には集中力が必要だ。そして落下すれば怪我では済まぬ可能性も大いにある。少しでも危険と感じたら無理をせぬ事!」
 太公望の言葉に各々が頷いて自らの武器を手に取り飛び立つ。天化は魔力で光る剣、雷震子は鋭い爪のついたグローブの他に翼と一体型の武器で雷と風を発する攻撃など、それぞれが自分に合った武器を持っていた。その中でもやはり哪吒は異質で、素早く発射する上に遠隔操作による回収が可能な腕輪の他に、エネルギー射出により中距離攻撃のできる槍、そして広範囲にエネルギー弾を照射できる小さな砲台を肩につけていた。
 この金磚というエネルギー砲が特に規格外の代物で、一般兵が使おうものならたった10発だけでも昏倒するようなエネルギー消費率のはずなのだが、哪吒は平然と何十発も一度に放つ。更にそれを一度ではなく、何度も。
「……ム」
「言い忘れておった、哪吒!風火輪(哪吒のブーツ)の出力を太乙に上げさせたのだ、昨日までよりも速く動くであろう!」
「悪くない」
 今までは地上兵を取り残してしまわないよう哪吒の魔力を押さえつけるコンプレッサーを最大値でかけていたのだが、太公望はそれを壊れないギリギリまで下げさせていた。案の定、哪吒は目にも止まらぬ速さで鍛錬場を端から端まで飛んで見せた。
「あいつまだ出力上がるんさ!?」
「哪吒さん、凄いです!」
 さすがの哪吒もこれには魔力を吸われすぎるのではと心配していた太公望だが、相変わらずケロッとしている様子を見て「杞憂であったな」と笑った。そして手合わせ開始の合図と共に全員が目の前の相手と対峙する。
 一角では武吉と雷震子が、また一角では楊戩と天化が、そして鍛錬場の天井付近で韋護と哪吒が向かい合って武器を構え合った。ここは視界の開けた鍛錬場だが、実際の戦場は女媧の用意する人工的な森や岩山のある視野の悪い広大なフィールドになる。そこで出会った敵同士は強制的に戦わなければならないというのが、この戦争のルールだった。戦略的撤退などは許されない。
「まずったな、俺じゃもうすっかり敵わねえよ、哪吒」
「目が合ったならどちらかが倒れるまで戦う。それが決められたルールだ」
「ああ、分かってる」
 韋護は魔力の流れで刀やクラブのように形を変える不思議な棍を手に持ちエアボードを翻した。哪吒に対抗するとしたら近距離戦しかないと思っていたが、機動力の上がった風火輪に対してどこまで通用するかは分からない。
「お手柔らかに頼むぜ!」
「手加減はしない」


 ***


 一方、雷震子と武吉は空中でありながら肉弾戦を繰り広げていた。距離を取れば雷撃を撃たれる事が分かっている武吉がとにかく距離を詰め、接近戦に持ち込んだのだ。
 二人とも攻撃力を増幅させるグローブを装備し手数はほぼ互角だが、武吉の方が一発ごとの重さがある。雷震子は鋭い爪で相手に創傷を負わせる事ができるのだが、武吉が相手では不利であった。
「テメ……ズルいだろ!!」
「勝負にズルいもへったくれもありませんよ!」
「うぐ、この……!」
 なぜなら、武吉には不思議な能力、"超回復"があった。これはこの世界の誰もが持っているものではなく、能力というものは種類も様々なため詳細な原理の解明はなされていない。
 とにかくこの超回復により武吉は自身の魔力が尽きるまで……もしくは一撃で致命傷とならないかぎり、ほとんどの傷を数秒以内に完治させてしまうのである。
 つまり単純に殴り合いを続ける事はこの二人の特性的に根比べということになる。先に疲れた方が負けだ。そして僅差ではあるが、この二人であれば純粋な体力は武吉の方が上であった。
 それを分かっているからこそ、雷震子は自慢の神風も雷撃も封じられたままこの削り合いを続けるなど不本意な事でしかない。
「雷震子さん、負けた人は明日まで勝った人の言うことを聞くって事でどうですか!?」
「いい度胸じゃねえか!手段は選ばねーぞ!!」
 雷震子の息が上がっているのを見て武吉は生意気にもそんな提案をする。少し押され気味だった雷震子は突然攻撃を受け止めることをやめ、ヒラリと後方に宙返りをして武吉の拳をいなした。
 突然空を切った武吉は前のめりになり、エアボードから落ちかけて慌てる。
「わぁっ!」
「こっちは足が自由なんだぜ!」
 そして雷震子はそのまま足を跳ね上げて武吉の顎を蹴り上げた。それ自体は大したダメージにはならないが、体勢を持ち直すのに必死な武吉から距離を置くことに成功する。
「起風、発雷っ!!」
 気合いの入った雷撃と激しい旋風が鍛錬場内に嵐を巻き起こす。武吉は突風と雷撃にエアボードを撃ち落とされ地面に落ちたが難なく受け身を取る。いくらか体にも傷を負ったようだが、すぐに回復したようだった。しかし乗機を失ってしまって降参した。
 同時に上空にいた韋護と哪吒はそれを紙一重で避けたが、ちょうど二人の戦いを背にしていた天化は背後から迫り来る雷撃に気が付くのが遅れてしまう。それを見た楊戩は思わず天化が自身へ攻撃の手を振りかぶっている事も忘れて庇おうと飛びかかった。
「いけない!」
「っうわ!?」
「う……っ!!」
 その時、ガツンと鍛錬場中に響き渡るほど大きな音がした。天化の攻撃と雷震子の雷撃を真正面から受けた楊戩が哮天犬から落下してしまったのだ。しかし近くにいた太公望がなんとか地面にぶつかる前にその体をキャッチする。
 そして突然のことに動揺してコントロールを失いグラリと体勢を崩した天化をいつの間にか近くへ来ていた哪吒が後ろからサッと支えた。
「天化!楊戩!」
「すげー音したぞ!おい大丈夫かよ!」
「僕、雲中子さまを呼んできます!」
 韋護と雷震子がすぐに反応し、武吉は医療班を呼びに飛び出して行った。
「俺っちは大丈夫さ!それより楊戩が……」
「ム」
 哪吒は天化を安全な場所へ降ろすと慌てて楊戩と太公望の方へ飛んだ。楊戩は気を失っているようだった。
「楊戩っ……」
「触れるでない、哪吒」
「……」
「雲中子に任せるのだ」
 思わず伸ばしかけた手を太公望に制されて止まる。すぐ駆けつけた雲中子に運ばれていく楊戩を見送り、太公望は「実際の戦場では仲間が倒れても時間は止まらない、傷ついた仲間を守るなとは言わぬ。しかし決して共倒れしてはならぬぞ」と気を引き締めさせた。


 ***


 鍛錬が終わり、哪吒はパタパタと医務室へ向かった。もちろん楊戩の様子を見に行く為である。
「やあ、お疲れ様」
「ム」
「楊戩の怪我は大したことないよ、脳震盪を起こしただけだったから安心するといい」
 怪我はもう大丈夫だけど自然に目が覚めるまで寝かせてあげよう。いずれにせよ様子を見るためにも明日までここでゆっくりさせる予定だから、今日は一人でおかえり。と言われて少し 躊躇 (ためら) いながらも哪吒は一人で鍛錬場を出た。
「……」
 太乙が直してくれた乗機を昨日の今日で壊してしまうとまた怒られるのが分かっているので、鍛錬場に停めたまま歩いて家まで帰って来た哪吒はふうと息を吐く。
 家の中が妙に静かに感じられて、そういえば楊戩と出会ってから一人で過ごすのは初めてかもしれないと考えてから、それほど当たり前に一緒にいられる相手だったのだと思い知る。
 もう決戦の日はすぐそこまで迫っている。自分自身も、仲間の誰にだって、無事で生き延びられる確信などない。もし、戦いの中で楊戩を永遠に失う事があれば……そんな事が脳裏をよぎって、気持ちを切り替えるように哪吒は洗面台でバシャバシャと顔を洗った。


 ***


――およそ20年前、金鰲

 崑崙にあるものと同じ鍛錬場などの施設が金鰲にもある。その司令部では聞仲が部下たちと何やら話し合いを行なっていた。
「そろそろ次の闘争について、取り決めをせねばならん」
「一体なんの取り決めだよ?大将なら決まってんだろ」
「王天君、話の腰を折るつもりならつまみ出すぞ」
 不遜な態度で机に組んだ足を乗せ、王天君と呼ばれた男は生真面目な聞仲を嘲笑うかのようにニヤニヤと口を閉じた。
「聞仲ちゃん、焦らなくてもいいのよん、全ては予定通りうまくいってるわん」
「予定通り?このように戦争を長引かせる事がか」
 何やら含みのある妲己と王天君の態度に聞仲は苛立ちを隠しもせず腕を組んで睨みつける。
「とにかく、これ以上このようなくだらぬ戦いを続ける気はない。次こそは全戦力で崑崙を叩くしかあるまい」
「趙公明と妹たちが抜けちまったってのに、全戦力ねぇ」
(やかま) しい」
 王天君が口にした"趙公明とその三人の妹たち"は非常に強力な金鰲の主戦力であった。1,2回目の闘争ではその戦果に大いに協力してくれたのだが、崑崙軍の主力を削り、武成王までをも戦線から離脱させた後は「この見せ物の戦いには興味がなくなってしまったよ」とこの戦争からすっかり身を引いてしまったのだった。
「はっ、自分の興味のあるなしだけを基準にして好き放題に人を振り回せるようなヤツの性根が羨ましいよなぁ、王子サマよぉ?」
「口を慎め、王天君」
 "王子サマ"そう呼ばれて話をふられたのは思い詰めた表情をした楊戩だった。しかしその姿は 有蹄類 (ゆうているい) の頭蓋骨のような仮面を被り、今崑崙で過ごしている楊戩よりもどこか禍々しい。
「しかしそういう事だ。今回ばかりは嫌でも戦場に立ってもらう事になる。いいな、楊戩」
「あらん、楊戩ちゃんの情報は秘匿されてきたから、とっておきの隠し玉ねん聞仲ちゃん」
 通天教主は以前からもしも戦争が勃発してしまったとしても、楊戩を戦線に立たせる事はならぬと事付けていた。しかしその張本人が姿を消して早200年が経とうとしている。金鰲の民からは王子は何故立ち上がらないのかと怒りの声が上がっているのだ。
「……本当に父は崑崙にいるのでしょうか。父も原始天尊さまも戦いを望んでいなかった。父の失踪が崑崙の仕業だという確証がない限り……僕はやはり、戦いたくありません」
 世界に名の知れ渡るあの名将、黄飛虎の退役には崑崙だけでなく金鰲の民さえもどこかショックであった。その発言に聞仲もどこか悲しげに瞳を揺らす。
「この戦争の意味は……」
「あんまそれ以上言うんじゃねえぜ、王子サマ」
 楊戩がいい顔をしない事を予想していたかのように王天君は余裕の表情で立ち上がり、聞仲に睨まれていることも気にせず何か一枚の紙を手に歩み寄った。
「やれやれ仕方ねえな、優しいあんたにはちょいと刺激が強いかもしれねえが……」
「?」
 渡された紙を素直に受け取ると、そこには崑崙軍の兵士に縛り付けられ連れ去られている様子の通天教主が写っていた。
「そりゃ念写ってモンだ。捏造で描かれた絵じゃねえぜ。現実の瞬間を切り抜いて保存できる一種の"能力"さ」
 そういうのが得意なヤツがいてなぁ、と説明をする王天君の声など楊戩には聞こえていないようであった。
「父上……」
「これで崑崙が間違いなくオレたちの敵だって理解できたかよ?」
 それを見てもまだ楊戩の気持ちは揺らいでいた。王天君、そして妲己……この二人には何か、金鰲の勝利以外の思惑があるように思えてならない。勝利どころか、ともすれば金鰲を内部から破壊しようとさえしているように感じる。
「……分かりました。では戦いの時まで、僕は崑崙軍へ潜入し情報を集めます」
 この目で見るまで信じられない。楊戩は自ら崑崙に潜り込み通天教主を探そうと考えた。それが出来るのは崑崙に存在を知られていない楊戩が適任であった。加えて楊戩は"変化"の能力を持っていた。
「分かった。定期的に連絡を寄越すように」
「アンタを王子と頼りにしてる金鰲の民を裏切んじゃねえぞ」
「無事に帰って来てねん、楊戩ちゃん」
 聞仲も楊戩が純粋に崑崙軍のスパイ活動を行うためだけに潜入するつもりではない事は百も承知である。しかし両脇に油断ならない二人が控えている今、何も言わなかった。「お前の信じる道を歩けばいい」と目線で伝える。楊戩はじっと聞仲を見つめ返し、静かに頷いた。


 ***


 それから5年ほど楊戩は姿を変えながら崑崙国内の様々な町を渡り歩いて通天教主の情報を集めたが、特に収穫の得られないままに中央都市へ辿り着いた。
 だがそこまでは予想通りで、楊戩は焦っていなかった。可能性があるとすればやはり崑崙軍であろう。それも中枢へ入り込む必要がある。その算段をつける為の5年の放浪であったとも言える。
 まだ歳若く人を疑う事を知らない哪吒という蓮から生まれた少年が次の大将に選ばれた……という噂をどこへ行っても耳にした。更に彼には頼れる身内がおらず、都市から少し離れた場所で一人ひそやかに暮らしているという話まで。
 楊戩は崑崙軍に入り込む為、その少年を利用する事に決めたのだ。自らが金鰲の人間とバレないよう、放浪の間に崑崙と金鰲の常識の違いなどを学び、更に保険をかけて記憶喪失という事にしておいた。
 初めこそ崑崙軍は通天教主を拐かしたかもしれないという疑いを抱いて潜入したため警戒の解けなかった楊戩であったが、その真偽はどうあれ、哪吒はそもそもこの戦争が始まってから生まれた身でその事件には関わっていない。
 崑崙の人々はそれを知った上で皆一様に口を噤んでいる可能性も否定は出来なかったが、それとなく会話の中で「金鰲の通天教主について、どう思う?」と哪吒に聞いてみた所「知らん」とだけ返ってきたのは嘘ではないだろう。

――哪吒は僕に絶対に嘘を () かない。

 楊戩はそれを嫌と言うほど知っていた。二人は本当にそれほど想い合っているのだ。
「……」
 病室で目を覚ました楊戩はそんな事を思い出して頭を抱えた。崑崙軍に入り込む為に利用するだけのつもりで、情報を得る為に何でも質問できる関係になるだけのつもりで、軽率に彼に近付いたことを心から後悔していた。
 こんな形で出会ってしまったという事実は、どれほど後悔しても今更もう変える事は出来ないのだ。
「胸を張って君の隣にいられる僕で出会いたかった……」
 枕元に置かれた少し下手な字で書かれた置き手紙を胸に押し付けて楊戩は蹲った。

▼第四話 『どんな言葉で伝えればいい』

 夜明け前に目が覚めて眠れないまま、カーテンの隙間から陽が差し込んでくるのをぼんやりと眺めていた楊戩はパタパタと聞こえてきた足音に慌てて気持ちを切り替える。するとまだ早朝だというのに全く平常通りといった様子の雲中子がひょこりと現れた。
「やあお早う楊戩。たっぷり眠れたかい。調子はどうかな」
「ええ、もうすっかり。ご迷惑おかけしてすみません」
「ご迷惑なんてことはないさ。それより君がこんなヘマをするなんて珍しいね、何か考え事でも」
「どうだったかな……」
 実際そうだった。普段であればあの状況で天化を庇ったとしてももっと上手く対処出来たはずだ。しかし最近の楊戩は確実に近付いてきた"裏切り"の瞬間について意識が散漫になっている。
 あからさまに話を逸らした楊戩にそれ以上言及することはせず、テキパキと診察を済ませて雲中子は何か報告書をまとめているようだった。
「ま……大丈夫そうではあるけど、太公望は今日明日くらいは休んでおけっていうかもね。どうせこんな直前になって根を詰めるものじゃ無いよ。本番までに大怪我なんかしたら元も子もない」
「そうかもしれませんね。正直、体を動かしている方が気は紛れるんですけど」
「へー、君でもナーバスになったりするのかい」
「僕を何だと思ってるんですか」
 するとまた表からトトト、と軽い足音がしたかと思うと乱雑に扉が開かれる。そこには哪吒が立っていた。
「いらっしゃい哪吒、お早う」
「ム」
「哪吒!まだ早朝だよ?」
「そりゃ君が心配でうかうか眠れなかったろうさ」
「うるさい」
 冷やかす雲中子を一瞥して哪吒はツカツカと楊戩に近寄り「もう大丈夫なのか」と尋ねてきた。あまりにも素直に心配されて楊戩は場違いにも嬉しくて堪らない気持ちになってしまう。
「うん、ありがとう」
「なぜ礼を言う」
「さて、揃った所で朝ごはんにでもしようか」
「怪しいものは入ってないでしょうね」
 当然のように哪吒が来る事を予想した上で雲中子が用意していた朝食を食べ終えた所で、哪吒は乗機の微調整について話がしたいと太公望と太乙に連れられて去って行った。
「師叔たちも哪吒がここに来る事を予想してたんですね」
「そりゃそうさ、昨日の哪吒の様子と言ったら」
 残った雲中子とそうして話していた楊戩はふとサイドテーブルの上に天化や武吉、雷震子たちからの見舞い品も置かれてある事に今更になって気がついた。
「これ……」
「ああそれ?太公望から見舞いの桃と……何だろうね、それは。あの子たちが置いてったんだけど」
 雷震子か天化のものらしき『ごめん』というメモにはなにやら騒々しいらくがきが大量にされてある。最終的には韋護のつまらないダジャレや誰が描いたのかも分からないおかしな絵まで入り混じった謎の置き手紙になってしまったようだ。
「……別に二人が謝る事は何もないのに」
 ギャアギャア騒ぎながらみんなで書いたのであろう無茶苦茶な寄せ書きに笑みを溢して、楊戩は「これ、折らずに持って帰りたいんですけど」と雲中子にしばらく読む予定のない本を一冊借りた。
「わざわざ持って帰るのかい、そんなの」
「ええ、一生大切にします」
 やはり通天教主の情報は得られない。しかし楊戩は少なくとも毎日共に鍛錬をしている天化たちがその誘拐事件に関わっていない事についてはもはや確信を抱いていた。原始天尊を中心に太公望たちが捜索活動を本気で行ってくれている事も信じている。
 かといって一般兵たちによる企てという線が完全に消えたわけではないが、楊戩はもはや哪吒だけでなく崑崙の皆が本心から好きになってしまっていた。父と天秤にかけてでも裏切りたくないと考えてしまうほどには。
 しかしこれはそんな一個人の問題ではない。楊戩の両肩には金鰲という一国の重みがのしかかっているのであった。


 ***


 午前の鍛錬を終えた哪吒がキョロキョロと鍛錬場内の廊下を歩いていると反対側から楊戩が歩いてきた。
「楊戩」
「あれ、哪吒!午前の分は終わり?」
「ム」
「お疲れ様」
 もしかして、僕を探してた?と嬉しそうにする楊戩に哪吒は否定も肯定もせず話題を逸らす。
「お前は何をしてるんだ」
 今日は体は動かさずに太乙真人さまのお手伝い、と言いながら楊戩は癖のように哪吒の赤毛に軽く頬をすり寄せる。その両手には武器や乗機の修理用パーツが大量に抱えられていた。
「それは体を動かしてるにならないのか」
「どってことないよ、こんな事くらい。にしても師叔も心配性だよね。怪我は大した事なかったし、もうみんなと同じだけ動けるのにさ」
「脳は怖いから頭を打ったら3日は様子を見ろといつも言われている」
「まあその通りなんだけどね……哪吒にも心配かけちゃったな。今日、ずいぶん朝早かったけど、昨日ちゃんと寝た?」
「ム」
 いつもと変わらない仏頂面ではあるが、少し寝不足のようにも見える。そんなに心配をかけた事が申し訳なくもあり、心配してくれる事は嬉しくもあり、そして身分を偽っている事を思えば、やはり複雑なのであった。
「……」
 こんな時がやってくる事は初めから決まっていたとはいえ、昨日の昏倒中に20年前の事を鮮明に思い出してしまった楊戩は改めて目の前に迫った"裏切りの期日"にすっかり元気を失っていた。落ち込む権利など自分には無いと思いながら。


 ***


 そうして一日ぶりに哪吒と共に家に帰ってきた楊戩はあくまでいつも通りに振る舞った。哪吒と共にリビングでゆったり過ごし、そろそろ寝ようかと声をかける。
「……楊戩」
「うん?」
「何か隠してる事があるんじゃないのか」
「え……」
 突然の言葉に心臓が大きく波打った。しかし表情には出さず平静を装う。
「何かって……怪我なら本当にすっかり」
「そうじゃない。最近のお前はどこか様子がおかしい」
「……」
「ぼんやりしていたり、辛そうな顔をする時がある」
 じっと見つめられて何も言えなくなってしまった。無言は肯定と同じだ。しかし「何も隠してないよ」とはどうしても言えなかった。二人の間に沈黙が続く。
「……言いたくないことを無理には聞かない。忘れろ」
「や、待って」
 楊戩は「先に寝る」と立ち上がり寝台へ足を向けた哪吒の腕をパッと掴み声をかけた。
「待って……そう、本当は……君に話さなきゃならない事があるんだ」
 まだ全てを話せる段階じゃない。だが出来る限り哪吒には嘘を吐きたくないし、隠し事もしたくなかった。

――そもそも、何もかもが嘘のくせに。

 楊戩は心の中で自嘲した。本当は今こうして軽々しく哪吒に触れることさえ、許されるべき立場ではない。
「僕は……僕には、隠している姿がある」
「?」
「今のこの姿が僕じゃないわけじゃないんだけど、その」
 しばらく言い淀んだが楊戩は覚悟を決めた。爪で哪吒を傷付けてしまわないようにその腕を離し、金鰲での姿を現す。
「こっちの僕も僕なんだ。これは変化っていう能力で……」
「そうか」
「ごめん……今はこれだけしか話せない」
「それでいい。話したい時に話せ」
 隠している事のほんの一部を晒しただけだが、それでも楊戩は肩の荷が少し降りたような気がした。
 この世界には色々な姿形をした生き物がいる。変化の能力も崑崙では珍しくはあるが、聞いた事がないわけではない。哪吒はそれほど驚いた様子もなく、楊戩に近寄るとそっと手を伸ばし楊戩の頬に触れた。
「どんな姿でも楊戩は楊戩だ。何も変わらない」
「哪吒……」
 こんな風に純粋に、ただ自分を信じて想ってくれている哪吒から軽蔑の眼差しで見つめられる時が来たら……と考えて悲しくなる。受け入れられた嬉しさと、更なる隠し事に対する罪悪感で感情が渋滞してしまう。
「……」
 まだ複雑そうに視線を泳がせる楊戩に焦れた哪吒は珍しく自らその頬に口付けた。そんな事をされたのは初めてで楊戩は思わず落ち込んでいた事も忘れて赤面する。
「え、ちょ……なた」
「何があっても、お前はお前だ。それだけは事実だろう」
「そ……そう、だね」
「ならもう暗い顔はするな。今はこっちに集中しろ」
 慰めたいのに上手く出来ない自分に苛立っているのか、恥ずかしげもなく真正面から強行手段に出た哪吒の強引さに思わず笑って、問題を後回しにしているだけだとは分かりながらも、楊戩は甘美な誘惑に流されるのであった。
「哪吒、好きだよ……本当に」
「ム」
 哪吒も馬鹿ではない。楊戩が記憶喪失というのはもしかしたらハナから嘘か、嘘ではないとしても既に記憶が戻っているのかも知れないと考えてはいた。しかしその理由を今は話したくないと言うのであれば、それ以上の事を無理に聞き出すつもりなど毛頭ない。
 人には様々な事情がある。いくら恋仲であっても土足で踏み込んではいけない領域が存在するという事を無意識下で理解していた。
 それより、楊戩が辛そうな顔を見せる事だけが哪吒にとっては気がかりだった。話すことで気が楽になるなら聞かせて欲しいし、話したくなければ話さなくて良いと思った。とにかく、どんな秘密を話されても楊戩を嫌いになることは無いのだと伝えたくて不器用な言葉を並べるよりその体を抱きしめる事を選んだ。
「……楊戩?震えてるぞ」
「大丈夫。なんでかな、緊張しちゃって。まるで初めてするみたいでさ」
「そうだな、オレもだ」
 しかし、まさかその隠された秘密が敵軍のスパイであるという事などは想像すらせず。


 ***


「……まだ落ち込んでるな」
「うーん、色々あるんだよ」
「どうすれば元気が出る」
「えっ、まだ甘えていいの?じゃあもう一回」
「今日はもう無理だ」
「冗談だよ」
 愛しく見つめあって笑い合えるこんな穏やかな時間の終わりが近付いている事、それを終わらせるのは自分自身である事を楊戩は心の中で泣き叫びたいほど辛く感じていたが、哪吒に二度と心配をかけまいと押し殺した。
 どうせ変えられない未来なら、苦しむのは自分だけの方が良いに決まっている。そして時が来れば、心の底から恨まれて、軽蔑されて、おしまいにするのだ……と。

▼第五話 『俺たちには大きな使命がある』

「おーい聞仲!」
 久々に聞いた親しい人物の声に不意に呼びかけられて、聞仲は一瞬聞き間違いかと思ったが再度呼ばれて非常に驚き立ち止まった。
「っ飛虎……!?」
「そうだって!無視すんなよ!」
 ここは金鰲、崑崙、どちらの国でもない殷国の城下町。聞仲はここで三人の妹たちと派手すぎる隠居生活をしている趙公明のもとへ諸用で訪れた帰りであった。
「何やってんだ?こんなとこで!」
「お前こそ、ここは崑崙から少し離れているだろう」
「ああ、賈氏の調子が悪くてよ。ここで扱ってる薬がよく効くってんで買いに来たんだ」
「そうか……薬は買えたか?」
「おう!」
「大事にするよう伝えてくれ」
「ああ、ありがとう」
 聞仲と黄飛虎はかつて国を跨いだ無二の親友同士であったが、今となっては敵対する国の総大将と国民に支持され続けている退役軍人。全く気軽に話せる関係ではなくなってしまった。
 しかしここは他国である。何やら怪しい動きをしている妲己と王天君の監視で忙しい女媧の眼も行き届きにくい事であろう。二人はこれ幸いと市場の人混みに紛れ歩きながら話し始めた。
金鰲 (そっち) は?疲れた顔してるけど、お前大丈夫か?」
「ああ。いや、あまり大丈夫ではない」
「相変わらず個人プレイな奴らに振り回されてんだろうな」
「ふ……そういうことだ」
「あんま無理すんなよ。って言っても、お前はなんだってやり切る男だったな」
 そこで聞仲は通天教主の事について何か聞こうかと刹那悩んだが、結局何も言わず黙ったまま開きかけた口を閉じた。せっかくこのようにして会えた親友と進んでしたい話ではない。
「前回はお互いに決め手に欠けてしまったが、今回こそは決着となるだろう」
「ああそうだな、今回のウチの若いやつらはそう簡単には倒せねえぜ!」
 にしても、前回は趙公明たちが抜けてくれて助かった!とカラカラ笑う黄飛虎に聞仲は複雑そうであった。実際、2回目の闘争にて黄飛虎だけでなく普賢真人、玉鼎真人という当時の主戦力であった大将を軒並みを削られてしまった崑崙は3回目の闘争で大敗を喫するであろうと思われていた。
 しかし「興が削がれた」というだけの理由で趙公明とその妹たちが金鰲軍から抜けた事により、前回……3回目の闘争は引き分ける形で終わりを迎え、崑崙は首の皮一枚繋げることが出来たのであった。
「趙公明のやつ、ウチの新顔を見たら隠居した事を悔しがるだろうなあ」
「……飛虎、傷はもういいのか」
「お……何だよ、気にすんなよ。あれは真剣勝負だったじゃねえか。そんな風に気にされるのは軍人として惨めだぜ」
「うむ、そうだな……すまん」
 趙公明がこの戦いに興味を失った大きな理由のひとつである黄飛虎の退役は聞仲との一騎打ちによって負った傷が原因であった。そしてその戦いのあまりの激しさに聞仲と黄飛虎の武勇は崑崙も金鰲も関係なく語り継がれ、それぞれが聞太師、武成王と呼ばれ尊敬される今に繋がっているのである。
 真剣に戦った相手に対して情けをかけた失言も含めてどことなくしゅんと俯いてしまった親友の背中を黄飛虎は雑にバシバシと叩く。
「おいおいやめろよ、もうしっかり治ったんだ!昔みたいに暴れ回ることはできねーが……世代交代ってやつさ。後の事は天化に託すよ」
「……ああ。彼はまだ荒削りだが、お前に似て人を纏めていける素質がある」
「よせ、照れるぜ」
「本心だ」
 こうして並んで歩きながら話していると昔に戻ったようで、今お互いが置かれている状況などすっかり忘れてしまいそうになる。そして聞仲も黄飛虎も、胸中では同じ事を考えているのであった。どうして俺たちが戦わなければならないのか……と。しかしここはそんな事を軽々しく口にすることさえ憚られる息苦しい世界だった。
「先にも言ったが金鰲は相変わらず、個々の戦闘力は申し分のない者ばかりの集まりだ」
 ポツリと呟く聞仲の声が浮かないようで、黄飛虎は心配そうにその横顔を盗み見る。いつでも背筋を伸ばして立っているように見える聞仲も生まれた時からの超人ではない。ただでさえ総大将という重荷を背負っている上に、その部下たちがアレでは……。
「しかし我らは金鰲軍というひとつの集まりではなく、所詮バラバラの勢力の寄せ集めにすぎん。私は」
「聞仲……」
「私は、名ばかりの総大将だな」
「っんなことねえよ!聞仲、オメーは……!いや、俺が言うのも変かもしれんが」
 敵軍に塩を送ってどうする。しかし今、黄飛虎の目の前にいるのは敵国の総大将などではなく、ひとりの悩んでいる親友でしかない。
「聞仲、俺はお前を……本当に尊敬してるんだぜ。だからそんなツラすんなよ」
「ふっ、まさかそれで慰めているつもりなのか?」
「な!なんだテメこら!」
「らしくない弱音を吐いた。忘れてくれ」
 らしくもなく真面目に言ったのに!と黄飛虎は顔を真っ赤にして聞仲にゲンコツを落とそうとしたが手のひらで受け止められる。
「これが最後の戦いになるだろう……いや、そうせねばならん。民はぶつけあい勝ち負けを予想して遊ぶための玩具ではないのだ」
「……そうだな。んで、全部終わったらよ、また一緒に酒でも飲もうぜ」
「そうできれば良いがな」
「そうするんだろ」
 市場の端で黄飛虎は立ち止まり、俺は少しタイミングをズラして出るから先に行けと聞仲を見送った。
「聞仲、これは約束だからな!絶対に死ぬなよ!」
「誰に向かって言っている」
 ここ最近は常に気を張り、戦う事に悩み、自分自身をも見失いそうになっていた聞仲だが、今は不思議なほどに心が軽い。気の置けない友の存在とはそれほどに大きな支えになるのだと改めて気が付いた。
 そして、そんな友から剣を奪ったのが自分である事をやはり悔やまずにはいられないのであった。

▼第六話 『夢を見て、炎と燃えた』

 雲中子から健康のお墨付きをもらった楊戩が鍛錬に復帰し、その日はまた大将たちの空中戦が行われていた。
「おーい君たち、もうあと7日しかないんだし、今本格的に故障したら困るんだから、立ち回りの確認くらいにして本気では打ち合わないこと!特にコラ!哪吒!お前のことだぞ!」
 何やら原始天尊と話があると退席中の太公望に変わって立ち会っている太乙が叫ぶが誰も真剣に聞く気はなさそうである。戦い始めるとスイッチが入るのは全員同じであった。
 それどころか太乙に名指しで怒鳴られているにも関わらず哪吒は肩に担いでいる金磚を武吉目掛けて全力で一斉放射させている。
「うわーっ哪吒さん!僕が超回復できるからってあまりにも遠慮なくないです!?」
「誰が相手でも手加減はしない。そうしてずっと隠れているなら炙り出すまでだ」
 武吉はエアボードの底を盾がわりにして降り注ぐ弾を防ぎながらなんとか物陰へ身を潜めたが、哪吒は火尖鎗と名付けられた中距離攻撃用の槍の先端から燃える炎のような魔力の刃を伸ばし接近戦へ切り替える。
「でも小回りが利くのは僕の方ですよ!」
「ム」
 その攻撃より先に武吉が飛び出し先手を打つが、機動力の上がっている哪吒は持ち前の反射神経も相まって難なくそれを交わし上空へ舞い上がった。体勢を整えて距離を取ろうとする哪吒を逃すまいと武吉は追いすがる。
「スピードなら僕だって負けません!」
 引き離されてはまた金磚を撃たれる。風の抵抗などを肌で感じられるのか、元々誰よりも飛行センスがあり速度の早かった武吉は魔力量のゴリ押しだけで素早く飛ぶ哪吒に簡単には負けられない矜持があった。
 距離を取ろうと後退しつつ飛ぶ哪吒に喰らいつきながら隙を見ては拳を繰り出す。そうすると必然的に哪吒は防戦の形を取るしかなく精神的に押される形になった。
「おーおー、やるじゃねえか武吉。目に目を、ゴリ押しにはゴリ押しをってか」
「彼は普段から哪吒に負けず劣らず割とゴリ押しなような気もするけど」
「確かに。そもそも肉弾戦オンリーってとこが、幼い顔して実はパワー系だよな」
 一方、韋護と楊戩はそんな風に会話をしながらそれほど激しく刃は交えず、ただ空中を飛び交いお互いの背後を取り合っていた。
「はい、これでまた一本」
「うお!気付くと回り込まれてんだよな……」
「今の哪吒ほどじゃないけど、哮天犬だってなかなか素早いんだよ」
「なにより独立して動くってのが強いよな、生物型は」
 こういう時はもっとこういう風に動いて……などと二人があーだこーだ話していると、楊戩の上に突然雷震子が降ってきた。
「わあ!」
「おっと、わりぃ!!」
「雷震子ー、大丈夫さ?」
「おう!」
 クソーやられた!と笑いながら哮天犬に跨ってモフモフし始めた雷震子の首根っこを楊戩は摘み上げる。
「早く降りてよ、二人も乗ってたら哮天犬が可哀想じゃないか」
「飛ばしてるのはオメーだろ!」
 そこへ時間を測っていた太乙が「はい、一旦休憩」と笛を吹いた。哪吒と武吉は気付かず暴れ続けているが、他のメンバーは「ほっとけほっとけ」と腰を下ろしたり水を飲んだりと休憩に入る。
「哪吒ー、休憩だよ」
「今日こそは一本取るって武吉のやつ、息巻いてたさ」
 しかし結局、先に魔力が尽きてきてエアボードの速度が著しく低下した武吉を哪吒が背後から蹴落とす事で勝負がついた。
「わーっ!!」
 ドカンと落下音が響いたが誰も動じない。
「おい結構な高さから落ちたぞ」
「大丈夫さ、武吉だし」
「それもそうか」
「ちょっと!少しくらい心配してくださいよ!」
「ほらピンピンしてるさ」
「お疲れさま武吉くん、惜しかったね」
「はあ、流石に今の回復で魔力がすっからかんです!」
 汗だくで悔しそうに騒いでいる武吉のエアボードを回収しに周りながら太乙はまだフワフワと浮いている哪吒に「ほら降りておいで」と声をかける。
「風火輪の調子はどうだ?」
「ム……もっと出力を上げてもいい」
「さすが戦いの申し子だね」
 そこへ地上兵の方を見ていた雲中子が様子を確認しに入ってきた。
「やあこっちはどう。誰も怪我してないかい」
 韋護、楊戩、天化が無言で首を振る。武吉も近寄ってきて問題ないです!と答えた。金磚の集中砲火を受け、高所から蹴落とされてなおケロリとしている様子に雷震子はこいつも結構なチートだよな……と呆れ顔をしている。
「雷震子さんは?」
「オレ様はいいよ、あいつの治療嫌いなんだ」
「ねえ哮天犬にべっとり血がついてるんだけど」
「こら、何か隠してるな雷震子。見せなさい」
 雲中子の治療は確かに治るのだが、怪しい新薬の実験台にされたり、気持ち悪い謎生物を傷口にくっつけられたりと決して気持ちの良いものではない。
 そこへ遅れてやってきた哪吒がこっそりと雷震子の背後から背中の傷に触れようとして太乙に叱られた。
「こら哪吒、触らない」
「ム」
「あっ!テメー何してんだコラ!」
「こっちの台詞だ、まったく。早く来なさい」
「バレちまったじゃねえかチクショー!!」
「あんなハデに血を流しておいて何言ってんだか」
 いやだーと騒ぎながら医務室へ引きずられていく雷震子を見送り韋護が独り言のようにポツリとツッコむ横で天化はどことなく申し訳なさそうに頭を掻いた。
「寸止めするつもりだったんだけど、つい熱くなっちまったさ」
「元気そうだから大丈夫だろ」


***


 その日の夜、哪吒は妙な胸騒ぎを覚えてうまく眠れなかった。戦いを目前にして多少は緊張しているのかもしれない。しかし理由は確実にそれだけではなかった。"あの日"から楊戩は暗い顔を見せていないものの、悩みがすっかり消えたわけではない事は哪吒にも分かっている。
 この世界では夜間の立ち歩きが禁じられていて、眠れないからと外の空気を吸いにいく事は出来ないのであった。
「……」
 とはいえ眠れないまま寝台に横になっていても更に気が滅入るばかりで、哪吒は隣の部屋で寝ているはずの楊戩を起こさないよう静かにリビングへの扉を開いた。
「あれ、哪吒?どうかした?」
「ム……」
 するとちょうど水を飲みに起きていたらしい楊戩が当たり前のように優しく微笑んで腕を広げる。
「眠れなかった?僕もなんだか目が覚めちゃって」
 何も言わず素直にその腕の中に収まった哪吒はしばらくしてから小さな声で「今日は一緒に寝る」と言った。
「うんいいよ、もちろん」
 同じ洗髪料を使っているはずだが、哪吒の髪はいつでも太陽の匂いがした。楊戩はその小さな体を一度ぎゅうと抱きしめてから手を取る。
「歌でも歌ってあげようか」
「いらん」
 哪吒が楊戩の為に分け与えてくれた一室は15年前まではほとんど空っぽの物置部屋だった。とはいえ楊戩も私物が多い方ではないので今でも寝台と最低限の着替え以外に荷物らしい荷物など無く、15年前と比べて部屋の様子はさほど変わっていない。だがそれにしても今夜は特に片付いていた。
 薄暗いので哪吒にはそれが分からなかったが、楊戩は立ち去る準備を刻一刻と進めていたのである。
「おやすみ、哪吒」
 並んで寝台に潜り込み、ポカポカとまるで子供のように暖かい哪吒の体温を隣に感じながら楊戩は目を閉じた。こんな風に過ごせる夜はこれが最後になる。未練にならないように顔を合わさないまま夜明けと共に去るつもりだったが、何かを感じ取られてしまったのかなと苦笑した。
 手を繋ぐときゅ、と握り返される。こんな風に甘えられたり、無防備な姿を見せてくれる事が嬉しい。それと同時に、もうそれも終わりだと思えば寂しさが募った。


 ***


 翌朝、哪吒が目を覚ますともうその姿は無かった。
「……」
 残り香のする毛布を一度だけ抱きしめる。こうなる予感はしていた。その上で何も言わなかったのだ。何か言えば引き止められたのだろうかと思わなくもない。しかしそうしなかい事を自分で選んだ。
 哪吒は落ち込んだ様子など欠片ほども見せないまま、乗機を置いて徒歩で鍛錬場へ向かうのであった。

▼第七話 『またひとり、行く所もない』

 ここは崑崙軍、教主室。決戦の日を5日後に控えて鍛錬場は静まり返っている。大将たちはまもなくやってくるが、地上兵たちはこれより当日までは心と体を休めて、しっかりと戦いに備えるよう言われているのだ。
「原始天尊さま」
「太公望か、こんな早くからどうしたのじゃ」
「今朝、楊戩が来ました」
 それを聞いて原始天尊はすぐに事情を察したらしく、小さく「そうか」とだけ返した。

――まだ日が明けたばかりの時間に、太公望はノックの音で目が覚めた。

「起こしてしまってすみません」
「構わんよ。どうも愉快な話ではなさそうじゃな」
「はい……僕は、金鰲軍に戻らなければなりません」
 そして楊戩は包み隠さずに自身の身分を明かした。まさか聞仲、趙公明、妲己のみに留まらず、まだこんな力を隠し持っていたとは……と太公望は金鰲の軍事力に素直に感心しているようであった。
「卑怯な手を使ってすみません」
「命が掛かっておるのだ。綺麗事だけで済むわけもなかろう」
「ですが、僕は本当は……」
「楊戩」
 辛そうに目を伏せる楊戩に太公望は優しく声をかけた。
「とうとうこの日まで通天教主を見つけられなかった事を 崑崙軍 (こちら) としても謝らねばなるまい」
「そんなっ……!やめてください、師叔!本当にこの国に父がいるのかどうかも」
「そうだのう。だからわしらはお互いに全力をかけて戦うしかあるまい」
 太公望は意志の強い瞳で楊戩をまっすぐに見つめてそう返した。楊戩はそんな太公望の振る舞いに思わず「この人と戦いたくない」と思ってしまった。
「ありがとうございます、太公望師叔。僕はあなたを本当に尊敬しています。戦場で会ったら……手加減は無しです」
「うむ、それでよい」
 立ち去ろうと背を向けた楊戩に、そのまま見送ろうとしていた太公望は我慢できずつい尋ねてしまった。
「楊戩!哪吒の事は……どうするのだ」
「……できれば、会いたくありません」
 振り返らないままそう答える背中はこの上なく悲しそうに見えた。
「それが今の僕に言える全てです」

――太公望は今朝のそんな会話を思い出していた。

 楊戩が哪吒をただの利用相手だと思っていたのであれば許す気は無かった。しかしそんなわけは無いと分かりながら聞かずにはいられなかったのだ。口先だけでも、どうでもいいだなどと嘯こうものなら一発殴るつもりであった。
 静かに話を聞いていた原始天尊はふうとため息を () き、 通天教主 (あやつ) め、どこにおるのじゃ……と苦々しく首を振った。
「こちらの手の内を全て知られてしまったわけじゃな」
 突然現れて記憶が無いと言いながら飛翔魔導機の扱いに長け、抜群の戦闘センスを見せた楊戩を少しも怪しいと思わなかったわけではない。
「……しかし、あやつを信じたかった。わしの弱さです」
 今日は鍛錬は無いが、大将たちは集まることになっている。原始天尊の部屋を出た太公望が鍛錬場へ向かう途中、哪吒が楊戩の事を伝えにやってきた。
「そうか、わかった。お主が何か責任を感じることはないのだからな」
「オレは……平気だ」
 気丈に振る舞ってはいるが、さすがに気を許している太公望の前ではその表情も少し力を失ってしまう。しかし優しい言葉を求めている様子ではないので太公望もそれ以上は何も言わなかった。
「皆にはわしから告げる。よいな」
「ム」
「何か聞かれても、お主が言いたくない事は言わなくてよい」
 太公望は気持ちが落ち着いてから来るように言うと、すれ違いざまに哪吒の背中をポンと叩いた。


 ***


 所変わり金鰲、その鍛錬場内部。硬い表情で廊下をツカツカと歩く楊戩の視線の先には壁に寄りかかる王天君がいた。
「よぉ戻ったか楊戩。久しぶりじゃねえか」
「……崑崙軍のデータを持ってきた。用はそれだけだ」
「なんだ久々の故郷だってのに嬉しそうじゃねえな? 崑崙 (あっち) での暮らしがそんなに楽しかったのか?」
 おかしそうに紡がれる軽口を受け流す余裕もなく、楊戩は苛立ちを隠さずに睨みつけて返す。
「放っておいてくれ」
「今ごろ崑崙の馬鹿どもは頼りにしてたオメーがいない事に気が付いて、大慌てだろうなぁ」
「……」
 こうなるように差し向けておいて、悪戯に楊戩の罪悪感を煽る悪趣味な王天君に言葉で言い返すことさえ嫌になり黙り込み、そのまま歩き出した。
「どんな気分だ?何せ10年以上も一緒にいたんだからな、情くらい移っちまったか」
「下世話な話はよせ」
「しかし、大事な大事なお父様はどうせ見つけられなかったんだろ?可哀想にな」
「……どういう意味だ」
 聞き捨てならない言葉に思わず立ち止まり振り返る。そんな楊戩に耐えきれず笑いながら王天君は足元を指差した。
「まじで気付いてないのか?通天教主のやつなら、ずうっとこの金鰲の地下に幽閉されてんだよ、この間抜けが」
「なっ……!?」
「はは、一体オレたちは何のためのに戦わされるんだろうな?火種になったハズの事件が、実はでっちあげだったなんてよ」
 怒りに握りしめられた楊戩の拳がわなわなと震える。一体何のために、あんなにも大好きな崑崙のみんなを裏切って、哪吒の事を傷つけて……。父を監禁するような国賊に、その戦闘資料を明け渡してしまった。
「おい今更、戦いたくありませんは無理だぜ楊戩……お父様の命が大事ならな」
「王天君……!」
「おっとそう睨むな。オレだって妲己に利用されてるコマのひとつに過ぎねぇんだ」
 乱暴に胸ぐらを掴まれても全く動じた様子もなく、王天君は楊戩が手に持っている資料を奪い取り、あるページで目を止めた。
「しかしこんなに振り回すだけ振り回しておいて、なかなか決着がつかねえからって……」
 そう話しながら楊戩の目の前に差し出されたのは哪吒についての資料だった。
「お前は目の前で見てきたんだろ、この哪吒とかいうガキ」
 王天君は資料を見ながらブツブツと文句を言っている。俺たちが必死に飛ばしてる魔導機を四六時中飛ばし続けても平気だと?こんなバグみたいな野郎をポンと作っちまいやがって。ムカつくぜ、生まれた時から恵まれてるなんてよ。ぐちゃぐちゃにぶち殺してやりてぇな……そのような事を。
 そこ言葉に楊戩は思わず「哪吒には手を出すな」などと言いたくなったが、下手な発言は逆効果でしかない。微塵も気にしていないかのように心を閉ざして無反応を貫いた。
「だいたい、本当にコイツの特徴はその魔力量だけなのかよ?どうせ他にも能力あんじゃねーのか」
「僕が見ている限りでは、特に何も……」
「……ふん、まあチート能力持ちなのはテメーも同じか」
 楊戩の変化の能力の凄さは外見だけでなく、その相手の能力さえもコピーできるという所にあった。もちろん原理がよく分からなかったり自分のキャパシティを超えたコピーは不可能だが、武吉に変化すれば魔力の許す限り超回復が使えるということになる。
 他にも、例えば妲己の能力"魅了"も相手を混乱させ行動を操る恐ろしい能力である。楊戩はそのように何度か見て学習した能力を自分のものとして使えるのだった。
「テメーもこのガキも、のろまな地上兵なんか連れずに単独で戦った方がよっぽど火力が出るんだろうな」
「……」
 哪吒が単独で行動する事は資料には記さなかった。そんな事を知れば、金鰲軍は何よりもまず真っ先に哪吒を集中攻撃し、その機動力を奪う事だろう。それを知らせて作戦を練る事が金鰲を勝利へ導くと分かりながらも、楊戩はそうしなかった。
「女媧サマはもう崑崙と金鰲っていう虫相撲の見物に飽きちまったらしいぜ」
 グイと楊戩を押し返し「放せよ」と吐き捨てると王天君は資料を床に投げ捨てて立ち去っていく。何枚かの紙が無遠慮に踏みつけられて破れたが気にする様子もない。
「それでも戦うしかねぇのさ。それがこの世界のルールなんだよ。わかるな?賢い王子サマ」


 ***


 一方、崑崙では太公望が大将たちに楊戩の事と、その穴埋めを燃橙に頼むという話をしていた。
「やっぱ燃橙さんかい」
「今元始天尊さまが話をつけに向かわれておる」
「でもあの人が素直に来てくれっかなぁ」
「事情が事情なんだし嫌だとは言わせねえさ」
 燃橙と直接面識のない雷震子と武吉、哪吒は少し蚊帳の外といった心持ちでそんな会話を聞いていた。
「僕たち、裏切られたんですね……」
「……」
「あてっ」
 哪吒はいつもと変わった様子は見せないが、武吉の不用意な発言に雷震子は無言でその頭をポカッと殴りつける。そこへ元始天尊の使いである白鶴が伝書を届けにやってきた。
「なんて書いてあるさ?師叔」
「うむ、燃橙は来てくれるそうだ」
「相当怒ってるだろうな」
 このようなくだらない見せ物は悪趣味だと憤慨して崑崙軍を抜けた燃橙の姿を韋護も太公望もよく覚えている。彼は単身で女媧の支配から世界を解放する為に何らかの準備を進めているという噂もある。
 しかし女媧への接触を図っているのは燃橙だけではない。避けられぬ戦いであるならば、怪しい動きをしている妲己を金鰲もろとも討ってしまえば良いではないかと元始天尊は燃橙を説得したのであった。
「そもそも燃橙はズルいのだ。わしかて戦いたくないと言って済むなら戦いたくないっちゅーに」
「完全に同意さ」
 こちらの情報は全て金鰲に渡っていると思ってよい、戦況は不利だ……と言い太公望はチラリと哪吒を見た。金鰲に哪吒の単独行動まで知られているとすれば、開幕直後に集中砲火を受けてしまうかもしれない。
 しかし、今更地上兵をつけて魔導機の速度を落とす事は哪吒が納得しないであろうと思った。それはつまり地上兵を囮のように扱うのと同じ事だからである。
「哪吒、くれぐれも気をつけよ。命を落とす事はない。危険を感じたら降伏するのだぞ」
「ム」
 哪吒は楊戩の変化の能力を言うべきか悩んだ。楊戩が武吉の超回復を会得しているとすれば、それは伝えておかなければならない情報だが、楊戩がその事を隠していた理由が戦況を有利にする為だけだとは思えず、勝手に話す事を躊躇してしまう。
 何かを言い淀んでいる様子の哪吒に気がついた太公望は気持ちを解きほぐすようにその頭をポンと撫でた。
「さっき言ったであろう。お主が話したくない事は話さなくてよい」
「ム……」
 それでも、敵軍の大将に対して私情を挟み他の仲間を危険に晒す事など許される訳がない。哪吒の選んだ答えは「いざとなれば、楊戩はオレが討つ」であった。


 ***


 それぞれの思いが渦巻く中で無情にもあっという間に時は過ぎ、戦いの日がやってきた。女媧によって用意された巨大なフィールドの中には森林や岩山、広大な湖のようなエリアまでもがある。
 戦いの様子はそのフィールド内に無数に飛んでいる機械たちによって撮影され、世界中に生中継される仕組みになっていた。燃橙や趙公明が辟易した理由である。
「楊戩……まじであっち側にいんのな」
「やりにくいさ」
 送られてくる映像を見て韋護と天化は渋い顔をする。それはきっとあちらも同じ事だろう。しかし太公望と哪吒はそこに映し出される楊戩の顔が浮かない事に違和感を覚えた。
 いくら崑崙に情が移り裏切ることが辛いとはいえ、仲間たちと共にいる面持ちには到底見えなかった。それどころか、まるで背中にナイフを突き立てられて嫌々戦う事を強要されているかのように硬く強張った表情にさえ見える。
「……楊戩……?」
 気持ちの整理などつかないままフィールドへの入場を促される。全員が入ったところで出入り口は溶けるように姿を消してしまった。これから戦いが終わるまでこのフィールドは解放される事はない。
 戦闘開始のベルが鳴り、哪吒は予定通りに自らの部隊を太公望に任せると猛スピードで森の向こうへ消えていった。

▼第八話 『僕を殺すのが君の権利』

 その日、崑崙と金鰲の全勢力がぶつかり合う闘争を全世界の人々が固唾を飲んで見守っていた。これが最後の戦いになると、皆が感じていた。

――森林エリアの一角に妙な雨が降っている。

「太公望も聞仲もこの戦いにおける犠牲者を最小限に抑えようとしてやがる」
 イライラと爪を噛みながらそう呟く王天君の周囲には敵も味方も関係なく兵士たちが倒れていた。一面に降り注ぐ雨に打たれた植物は枯れ落ちていく。王天君は"酸性の血"という能力を持っていて、それを手のひらサイズの"紅水陣"という魔導機によって撹拌し細かい水滴にして広範囲に降らしているのであった。
 王天君の部隊は半数ほどが雨に打たれて倒れてしまったが、残りの半数は雨の降らない場所まで避難したようだった。敵と遭遇したらすぐに紅水陣を展開させるからな、と宣言されてはいたものの、そのあまりの範囲の広さに逃げきれなかった者たちが巻き込まれたのだ。
「胸糞悪いぜ……もはや理由なんざ関係ねえ。崑崙と金鰲は国が作られてから何千年も憎しみあってる。それで充分じゃねえか」
「うるせぇ!さっさとこの雨を止めるさ!!」
 酸の雨にボロボロにされながらもまだ武器を手に飛び掛かってくる天化をヒョイと避け、王天君は鬱陶しそうに首を傾げた。
「うるせえのはテメーだ、いいか?これは訓練じゃねえ。どっちかが潰れるまでもう止まらねえんだよ。そして……筋書きならもう決まってる」
「筋書き……?どういうことさ」
 王天君は自身の周りを飛ぶ撮影用の機械を見て余計な事を言ったなと舌打ちをした。ここで妲己に任されているのは戦況をかき乱して女媧の注目を集める事だ。この監視下ではいかなる質問にも答えるわけにはいかない。
「テメーを大将戦最初の犠牲者にしてやるよ」
「……っ!」
 ザアザアと雨足が強くなり、霧が立ちこめる。息を吸うだけで体の内部から溶かされるようだった。このままでは地上兵は全滅してしまう。大将である天化が降伏を選択すれば即座に部隊全員がフィールド外へ転送される仕組みではあるが、せめて一矢報いたかった。なにしろ王天君は天化の父である黄飛虎と聞仲の真剣勝負に泥を塗った男なのである。
 二人を武成王、聞太師と呼び慕う民たちは知らない事だが、黄飛虎を退役へと導いた聞仲の最後の一撃はその魔導機を狙ったものだった。しかし王天君の手出しによってそれは黄飛虎自身に直撃し、酷い傷を負う結果となったのである。
「はは……親父の件でオレを恨んでるのか?」
 傷ついた天化がなんとか力を振り絞り近寄ろうとしても軽く避けるばかりで相手にもしない。不利な状況でも失われない闘争心に王天君は余計に苛立つようだった。
「ほらさっさと降参しろよ、太公望の守りたがってたか弱い兵士たちが死んじまうぜ」
「あーたの部下たちだってそこにいるさ……!」
「関係ねえんだよ。オレは離れとけって言ったんだ」
 あまりの悔しさに天化は歯を食いしばりながらも、遂に限界を迎えて地に落ちてしまう。その瞬間何者かにグッと支えられる感覚がして、気が付けば雨は止んでいた。
 目を開けるとそれは楊戩で、どうやら王天君の紅水陣を破壊したらしい。魔導機ごと切られた手を押さえながら王天君は怒りに我を忘れたように楊戩を睨みつける。
「おいおい……自分が何をやってんのか分かってんのか?」
「すまない。手が滑った」
「よ……楊、ぜん……何、やってるさ……」
 危険な目に遭うんじゃないのか、こんな事をして。天化はそう思うのと同時に楊戩はやはり裏切りたくて裏切ったのではないと分かり、どこか嬉しいような気持ちもあった。
「意識のあるうちに降伏するんだ。君も兵士たちも、もう戦えない」
「……っ、……師叔、ごめんさ……!」
 天化が降伏すると地上に倒れていた兵士たちもその姿を消し、フィールドの外では戦いを見守っていた黄飛虎がすぐ天化を抱き寄せる。王天君が何か言うより先に楊戩はその場を立ち去った。
「チッ……情に流されやがって」
 主力としていた紅水陣を失った王天君は一旦体勢を整えるためにどこかへ身を隠そうとしたが、そこへ哪吒が一人で現れた。
「キサマの相手はオレだ」
「……へえ、もう王貴人を倒して来たのか?」
 紅水陣が消え王天君のもとへ戻ってきた地上兵たちが哪吒を狙い撃つが、掠りもしない。
「やめとけ、テメーらじゃ相手になんねーよ。無駄撃ちだ」
 哪吒と対峙した王天君は辺りにその部隊が見えない事に気付き、心の中で毒づいた。

――あのクソ野郎、このガキが単独で動くって黙ってやがったな……。

 そして武器を構えられて「よせよ、オレは肉弾戦派じゃないんだ」と言いながら両手を広げた。
「そんな言い分で避けられる戦いじゃない」
「楊戩にも同じ事が言えんのか?」
「……」
 その言葉に一瞬動揺を見せた哪吒だったが、武器を構えたまま言い返す。
「戦うしかない。お前も……あいつも、敵だ」
「はっ、そうかよ。可哀想だなぁ楊戩の野郎も」
「何を言っている」
 すると突然王天君は打ち合うフリをして追尾してくるカメラを壊し、哪吒の胸ぐらを掴んで近くにあった岩陰へと引き摺り込んだ。
「そりゃそうだろ。ただでさえ 金鰲軍 (オレたち) に大事なパパを人質にされて戦いを強要されてるってのに、身分を偽っていたとはいえ15年も共に過ごした大好きな崑崙の奴らにはあっさり敵呼ばわりされちまうなんてなぁ……これぞ針の筵ってやつだ」
「……っ!?」
「崑崙軍の奴らは冷たいもんだぜ、全く」
 驚きに固まる哪吒を見て嘲笑い、更にその耳元で小さく囁いた。
「まあでも安心しろよ。どうせこの勝負、金鰲が負ける。妲己が裏でそうなるように動いてるからな」
 そして「攻撃手段が無くなっちまったんだ。降伏していいだろ?」とあっさり降伏が認められ、無傷のまま戦線離脱した王天君の事などもはや気にも留めず、哪吒は楊戩を探しに飛び立った。事情を知ったからといって、見つけたとしてもどうする事も出来ないと分かりながら。
 敵軍同士が出会えば、どちらかが戦闘不能となるまで戦わなければならない。それがこの世界の決まりなのだ。


 ***


「ム……」
 しばらく飛び回っているとどこかで激しい打ち合いが起きているようで血の匂いが漂ってきた。ニオイに敏感な哪吒はそれを辿って行く。そのうち岩場で争う地上兵と、その遥か上空で打ち合う韋護と楊戩の姿が見えてきた。
「もう降伏してくれ、分かってるだろう。君じゃ僕には勝てない」
「そんなことは知ってるが……引き下がれない事だってあるんだよ!」
 いつかの鍛錬で見た光景のように楊戩は素早く韋護の背後を取り、容赦なくその背を切り付けた。
「く……っ!!」
 哪吒はエアボードから弾き飛ばされた韋護を空中で受け止め、楊戩と対峙した。動けない韋護に追い討ちはかけて来なかった。
「……命までは取る気ないよ。これで勝負はついたろう」
 再三促され、韋護は悔しそうに降伏を選んだ。連ねてその部隊も戦線を離脱した事により楊戩の部隊は一斉に哪吒へ刃と砲口を向ける。しかし楊戩がそれを止めた。
「一騎打ちにしよう。敵前退避は許されていないが、相手の数と合わせる事は条約違反にはならない」
 地上兵にその場で待機するよう命令すると、楊戩は彼らに流れ弾が当たらないよう、遠慮なく打ち合える場所へと移動した。ここなら良いかと振り返り、流石に複雑そうな顔を隠せない哪吒に厳しく声をかける。
「哪吒、火尖鎗を取るんだ。戦場で出会ったからには、僕たちは戦わなければならない」
「……」

▼第九話 『雨は過去を洗い流す』

 足場の開けた場所で楊戩と哪吒は全力でぶつかり合っていた。
「さすがに速いね……!」
 二人の戦いはいつもほぼ互角だった。火力は確実に哪吒が優っているが、そもそも動きを読まれていて当たらない。普段の鍛錬の時はそうしているうちに接近を許して制圧され、最終的には楊戩の勝ちになる事が多かったが、スピードが大幅に上昇した今の哪吒はさすがの楊戩でさえ簡単には捉えられなかった。
「悪いけど、体力勝負になると敵わないって分かってるんだ」
 楊戩は哪吒が地面に近付いた瞬間に哮天犬から降り、自らと哮天犬で挟み撃ちにする。前後から攻撃が迫り、罠と分かりながらも哪吒は上空へ飛び上がった。
「……!」
 当然それを予想していた楊戩は自身の武器である三尖刀を素早く投げつけ、哪吒は間一髪でそれを避ける。避けられる事まで予想して先回りし、投げた三尖刀を素早く空中でキャッチした楊戩は体勢の崩れた哪吒に背後から切り掛かる。哪吒は咄嗟に火尖鎗でそれを受け止めたが、勢いを殺しきれずに地面に叩きつけられた。
「くっ……」
 その隙に追い討ちを受けないよう、哪吒は起き上がるより先に金磚を無差別に乱射して牽制する。
「うわっ!」
 有利と見て一瞬気の緩んだ楊戩はいくつかの弾をまともに喰らってしまった。いくら底なしの魔力を持っていても猪突猛進では勝つものも勝てない。それを日々の鍛錬でしっかりと学び、不利になった瞬間こそ冷静に対処できるようになった哪吒の姿に、敵対している事も忘れて楊戩は少し嬉しそうに笑った。
「強くなったね、哪吒」
「……」
 その腹部からボタボタと流れる血に哪吒は思わず「武吉の超回復を使わないのか」と言いたくなる。楊戩は戦いの中で変化の能力を一切使っていなかった。
 それは決して哪吒との真剣勝負に対する手加減といった侮辱行為では無い。こんな状況にまでなっても未だに、楊戩はただただ崑崙の皆に"あの"姿を知られたくなかったのだ。
「哪吒、さっき……僕を探してたの?」
「……」
「戦う為に」
 違う……とも言えなかった。哪吒は自分でも説明できない感情によって、とにかく居ても立っても居られずに飛んで来たのだ。その時、フィールド全体に王天君、王貴人、そして韋護、天化が降伏したとアナウンスが流れる。
「わからん。だが……どうせ戦わなくてはならないのなら、お前はオレが倒す。それだけだ」
 それは楊戩が崑崙を去ってから決めていた事だった。しかし、哪吒が自分を倒すために現れたのだと落ち込んだ顔をする楊戩を見ていると無性に苛立った。どんな理由があったにせよ、大前提として裏切りに傷付けられたのは哪吒の方なのだ。
 とにかく手負いの楊戩をこのまま戦闘不能に追い込めば、降伏を促せる。楊戩は父である通天教主を人質にされているのかもしれないが、哪吒も崑崙軍の命運を背負っている。一歩も引けないのはお互い様だった。
「分かってた事だけど……戦うしかないんだね」
 哪吒は空中で火尖鎗を手に振りかぶりながら、晒すつもりの無かった感情が言葉になってこぼれ落ちてしまう。
「裏切ったお前が……傷付いた顔をするな」
「……っ!」
 楊戩を相手に力をセーブして勝てるとは思っていない。容赦などしないつもりだったが、思わず発した自身の言葉に辛そうな顔を見せられ哪吒は動揺した。ほんの一瞬の隙だったがガツンと体に重い衝撃が走り、世界がぐるんと回る。

――しまった。

 追撃が来る。視界の端に三尖刀を構える楊戩が見えて哪吒は落下しながら無我夢中で金磚を放った。あまりの魔力量に限界を超えた金磚はひび割れ大破する。
 その最大出力の砲撃に対し楊戩は避ける事も防ぐ事もしなかった。自暴自棄になったわけではない。ただ本当に心と体が分離してしまったかのように、動けなかったのだ。
「っ!?な……楊戩……っ!!」
 哪吒は地面に落ちる直前で身を翻し、金磚の直撃を受け哮天犬から落ちた楊戩を間一髪で受け止める。
「……父上、すみません……」
 朦朧としながらそう呟く楊戩は悲しげでもあるが、どこか解放されたようでもあった。負けたことで、通天教主がどうなるのかは分からない。しかしもうこれ以上、哪吒と戦わなくていいという事でもあった。


 ***


 そして湖のエリアでは金鰲軍の妲己の妹である胡喜媚と武吉、太公望が戦っていた。
「お師匠さま、天化さんたちが……!」
「うむ、わしも聞いておった」
 武吉は胡喜媚の相手は自分がするので早く聞仲を探しに行くよう、太公望に叫んだ。一対一における撤退はルール上不可能だが、一対複数の場合は離脱が許可されている。しかし胡喜媚も幼い少女のような見た目をしているが、局所的に時間を操る能力を持つ強敵であった。
「しかし……」
「僕だって足止めくらいにはなれます!お師匠さまが守るべきは今ここにいる僕とその隊員だけじゃなくて、崑崙に生きる人たち全員でしょう!」
「……うむ、そうであったな。任せたぞ武吉!」
 胡喜媚と戦っている内から、湖を超えた先の岩場で大きな戦いが起きているのが見えていた。太公望はあれが聞仲と燃橙であろうと目星をつけて飛んでいく。そこには妲己もいた。
「燃橙!」
「遅いぞ太公望」
「お主、ちと強すぎんか?」
 たった一人でこの二人を食い止めていた燃橙は能力なのかどうかも怪しい"気合い"と言う謎の力で飛翔している。楊戩が哮天犬を連れて行ってしまったので、崑崙軍には飛翔魔導機が6台しか無いのだ。というより実際は飛翔ではなく足場を利用して次々に跳躍しているだけなのだが、対空時間が長過ぎて飛んでいるようにしか見えなかった。
「なんでもアリだのう……魔導機なしで空中戦に参加するとは」
「そんな事はどうでもよい。私は妲己に集中する。お前は責任を持って聞仲を討て」
「うむ!」
 そして燃橙は拳を、太公望は武器を構え、それぞれの敵と向き合った。


 ***


 森の中で戦っていた聞仲の腹心である張奎と雷震子は木の間を素早く縫うように飛び、追って来れなくなったそれぞれの部隊から遠く離れていた。
「さっきからテメーの部下たちが見えねーぞ!」
「そっちこそ、一人で平気か?」
 雷震子の放つ (いかづち) に対し、張奎は土を操る能力によって頑強な土壁を生み出し防ぐ。雷と土では圧倒的に雷震子が不利であった。
金鰲軍 (そっち) 、能力者多くねえか!?」
「そうだな、金鰲が勝つように 支配者 (ジョカ) がそう配置してくれてるんだろう」
「ほざけ!」
 張奎は黙っていたが、崑崙より金鰲の方がテクノロジーが進歩している。能力と呼ばれているこれらの力はその者が生まれ持つ特徴を開花させたものに過ぎず、本来誰しもが何かひとつは能力となりうる力を持っているのだった。
 金鰲ではそれを強制的に発現させる研究が進んでいて、魔力量も十分にあり戦闘向きの能力が発現したものばかりが大将に選ばれているため、能力待ちばかりになっているというわけであった。
「敵わないと思ったならさっさと降伏するんだな」
「こっちのセリフだ!」
 張奎の挑発にカチンときた雷震子は大風を起こし、その土壁だけでなく周りの木々も含めて全ての遮蔽物を薙ぎ倒した。
「うわ!ち、力技すぎる……崑崙のやつらが脳筋だって噂は本当だな……!」
「こっちにはチート級の魔力量のやつがいるから、負けてらんねーんだよ!」
 雷が土と相性が悪い事を感じ取った雷震子は無駄な体力の消費を抑える為に風と直接攻撃の戦い方に切り替えることにした。先ほどまでと違い、開けた場所で一気に距離を詰められて張奎は慌てる。
「おい、本気で肉弾戦なんかする気か!?」
「あたぼーだ!崑崙の脳筋根性ナメんなよ!こちとら無限回復野郎と殴り合うのにだって慣れてるんだぜ!」
 土を操る隙を与えず殴りかかりながら、普段の武吉の気持ちってこんな感じか、などと考えて雷震子は不敵な笑みを浮かべた。


 ***


 放たれた燃橙の攻撃の軌道上に聞仲がいる事を横目で確認した妲己はタイミング良く避けると同時に自身の攻撃も加えて聞仲を背後から叩いた。更に太公望も攻撃を放った所だったので、聞仲は三方向から攻撃を受けることになり、避けきれず墜落する。
 派手な爆煙が辺りを包み、妲己はその混乱に乗じて素早く付近を飛ぶ撮影の機械を全て叩き壊した。
「ぐっ……!!」
「聞仲!」
 思わぬ不意打ちに聞仲は膝を付きつつ、内心では裏切りなど予測していたようで、ただ黙って妲己を睨みつけた。これには聞仲よりも太公望の方が取り乱す。
「妲己、お主何を考えておる……!?」
「いやん、狙いが逸れちゃっただけよん。ごめんね聞仲ちゃん、金鰲が負けちゃうん♡」
 動けない聞仲に太公望は追撃をせず武器を下ろした。
「何をしている、さっさと殺せ。それで戦争は終わる」
「こんな勝利を望んでいるわけではない!聞仲、降伏せよ!」
「私は総大将なのだ。この戦いの責任を負わなければならない」
 生真面目すぎるその言葉に太公望は首を振る。
「本当に争うべきは、わしらでは無いのではないか」
「……しかし」
「この世界を不当に支配し、まるで子供の人形遊びのように人々を衝突させて楽しんでいる者がいるではないか」
 後ろでその様子を見ている妲己も燃橙も何も言わない。燃橙としては手を組む事はやぶさかではなく、妲己の狙いは金鰲の敗戦および弱体化にある。
「お主の協力は必要不可欠じゃ……まだ死ぬな、聞仲」


 ***


 一方、傷付いた楊戩を地面に寝かせた哪吒はその意識がまだあるのを確認して何度も声を掛けた。
「楊戩、何故……手を抜いた」
「手を……抜いたんじゃない、本当だよ……ただ先に心が折れただけ」
 腹部に負った傷が痛むのか、途切れ途切れに楊戩はそう返事をする。それは事実だった。決着が着くまでつもりなど無かった。楊戩の心が折れた瞬間、決着がついたのだ。哪吒の勝ちだよ、君は強かった。心まで……。そう呟く楊戩の意識が遠のくのを哪吒は察した。
「でも、これでいい……哪吒を、傷付けずに済んだ」
「……」
「自分勝手で、ごめん」
 楊戩がどうして戦っていたのか王天君から聞いてしまった哪吒は、他の方法は無かったのかと考えるほどにどうしようもなく悔しくなり、何も言えずに首を振る。

――オレだって、お前を傷付けたかったわけじゃない。

「もう、戦わなくていい。お前は降伏しろ」
 そう小さく言い火尖鎗を手放したかと思うと、意識が朦朧としている楊戩の手を (おもむろ) に握りしめた。
「……自分勝手は、これでお互い様だろう」
「な、たく……?」
 状況が読めないものの楊戩は触れた手から妙な力の流れを感じ、何かとてつもなく悪い予感がしてそれを振り解こうとした。
「哪吒、よせ!!」
 ずっとモニターで観戦していた太乙が聞こえるはずも無いのに、フィールドの外から必死に叫ぶ。その時、楊戩の全身を包んでいた激しい痛みが波の引くようにスッと消え去った。
「え……」
 訳がわからないまますっかり傷が癒え動けるようになった体を起こすと反対に哪吒が倒れ込んできて、慌てて受け止める。
「な……哪吒っ!?なに……どういう……っ」
 何かぬるりとしたものに手が触れた気がして、恐る恐る見下ろすと大量の鮮血が付いていた。それどころか血は哪吒の体からどんどん流れ出してくる。楊戩は背筋がサッと冷たくなり、とにかく確認するために哪吒の服を捲り上げた。
「哪吒……哪吒!!どうして……!?」
 すると服はどこも破れていないのにその体は傷だらけでボロボロになっていた。混乱の中で楊戩の頭にはひとつの可能性が浮かび上がる。

――まさか、哪吒の"能力"……?

 そして今まで鍛錬中に誰かが傷を負った時には必ず太公望や太乙が哪吒を怪我人から引き離していた事を思い出す。彼らは知っていたのだ。哪吒の能力は"自己犠牲"……自らを生贄にして他人を助けるというものだった。
「バカ、哪吒……こんなっ、こんな事……僕は望んでない!!」
 哪吒を失う事と変化の能力を晒す事を天秤に掛けられるわけが無いのに。楊戩は自らの優柔不断さを激しく後悔した。まさかこんな形で哪吒がその責任を取ろうとするだなどと、予想できるはずもなかった。
「……誰か……っ!」
 完全に意識を失っている哪吒の体を抱きかかえて辺りを見回す。何か叫んでいる太乙の姿を見つけたが、駆け寄ろうにも半透明の戦闘フィールドがまだ張られていてそれ以上近づけない。そう、この戦いはまだ終わっていないのだ。フィールドから離脱するには本人が降伏を宣言しなければならない。
「聞仲……太公望師叔……!!」


 ***


 そうして楊戩が一刻も早く戦いが終結する事を祈っている頃、太公望は聞仲を説得していた。
「聞仲、お主も分かっているはずだ。わしらには真に抗うべき相手がいるであろう」
 この付近を飛び回って戦いを中継していた機械は軒並み妲己に破壊されたが、すでに他所から補填されてしまった。これ以上の不用意な会話は出来ないと太公望は口を噤み、聞仲とただ視線を交わす。
 聞仲も太公望の言わんとしている事は分かっている。しかしこれだけの犠牲を積み重ねてきた戦争の終わりが総大将同士の和解であって良いのかと自問していた。
「聞仲……」
「そうだな。これ以上、私も無駄な血を流させるつもりはない」
 こんな時、脳裏に浮かんだのは無二の共である黄飛虎との会話であった。国民に対する責任は生きて果たすべきだ。そして、黄飛虎との約束も。


 ***


『金鰲が降伏宣言をしました。この勝負は崑崙の勝利となります。戦闘員は全員、戦闘を終了してください。これよりフィールドを解放します』
 無機質なアナウンスと共に戦闘フィールドが溶けるように消え去り、ゴツゴツした岩場だった足元も普段の長閑な景色へ戻る。
「太乙真人さま!!」
 黄巾力士を操りすぐにやってきた太乙は奪い取る勢いで哪吒を受け取ると、裏切り者を見る憎しみのこもった瞳で楊戩を睨みつけた。
「哪吒が死んだら……君を許さない」
「……っ」
 それだけ言い残すと太乙は何も言えない楊戩を振り返る事もなく、目にも止まらぬ速さで治療の出来る場所へ走り去って行った。
 辺りでは負傷した地上兵たちを救護する為に医療関係者もそうでない者も関係なく、非戦闘員として戦いを見守っていた人々が金鰲崑崙入り乱れて駆けて行く。
 人々は生まれた時から元々憎しみあっていたわけではない。ただ同じ世界に暮らす隣国の人々というだけだった。それが女媧によって歪められてしまったのだ。
 楊戩はただ立ちすくみ、慌ただしい救助活動の様子をまるでスクリーンを通して映画でも観ているかのような気持ちで眺めていた。

――いったいこれは、誰の……何のための戦いだったのだろうか。

 そしてそんな事を考える。今回の火種となった通天教主拐かし事件さえ、妲己や王天君によるでっちあげだったというのに……。
「……父上」
 気力を失いガクリと地面に膝をつく。手にべっとりとついた哪吒の血を見て気が遠くなった。
「終わったな、楊戩」
「……」
 そこへどこからともなく王天君が現れるが、楊戩は返事どころか振り返ろうともしない。
「金鰲はこれで敗戦国になる。テメーももう王子サマなんかじゃねえよ」
「どうでもいい、そんな事……はじめから」
「ああそうだろうな」
 これは通天教主からの伝言だぜ。そう言って王天君は一通の手紙を楊戩の傍らに投げつけた。
「じゃあな。オレはしばらく消える」
「……父は」
「知らねえよ、敗戦国の王として崑崙に引き渡されんじゃねえの?」
 ここから先の筋書きはまだ妲己しか知らねえんだ。と呟いて王天君は踵を返す。とにかく役目は果たしたらしい。
 その場に残された楊戩は血で汚れる事も気にせず服の裾で手を拭い、投げつけられた手紙を拾い上げた。

▼第十話 『切れることのない絆』

 崑崙と金鰲の長く続いた戦争は崑崙の勝利という形で終結を迎えた。一番の議論の種となっていた通天教主が金鰲の地下で崩れた資材の下敷きとなり息絶えているのが見つかったのはその直後の事で、それを聞いた原始天尊は「まさか事故死ではあるまい……誠に残念じゃ」と苦い顔をしていた。
 原始天尊には敗戦国である金鰲の民たちを自由にする権利が与えられたが、当然ながらそんな権利など欲しがったわけもなく。
 とはいえ簡単には消えない両国の蟠りを懸念して国をひとつに統一することは避けた。その代わりに金鰲の実権を聞仲へ明け渡し、両国間の不必要な接触はこれまで通り制限するという形を取っている。
 つまるところ、戦争前も後も大して世界は何も変わっていないのだった。ただ、聞仲は争いを望まず、崑崙の軍事機関に全面協力をする上で金鰲には軍事力を築かない予定だと話している。
 妲己は金鰲の弱体化により女媧を退屈させ、より強大な国の建設を唆しその実権を掌握せんと目論んでいるので、聞仲の平和主義な政策になど興味がない……むしろ歓迎している様子だ。
 もちろん、女媧がそんな狙いに気付いていないわけはない。しかし圧倒的優位にいるという余裕から、そういった下々の"足掻き"自体をエンターテインメントとして楽しんでいるのである。だからこそ妲己は派手に、残酷に、女媧を楽しませる為に犠牲を厭わず国を振り回した。
 手のひらで踊らされているように見せかけて、その油断している寝首を掻く瞬間を虎視眈々と狙っているのだ。女媧がそんな妲己にどこまでやれるのか試させてみようと"蓬莱"という国を作り与えるのはもう少し後の話になる。
 太公望や聞仲、そして燃橙や姿を隠している申公豹も、妲己の暴力的な策略自体は容認し難いと思いながらも、最終的な目的そのものは同じであるので、それぞれが常に策を講じながら"その"タイミングを見計らっているのであった。


 ***


 頬に触れられる感覚がして、哪吒はふと意識を覚醒させた。しかし体がうまく言う事を聞かず、目も開かない。泥の中のように重い意識の中で一体どれくらい眠っていたのかと考える。
「っふ、う……」
 腕を動かそうとするが、ぎこちない。そしてようやく楊戩の怪我を自身にそっくり移し替えたという事を思い出した。柔らかい場所に寝かされている。ここは病室だろうか、あれから何日くらい経っているのだろうか。
 頬に触れている手の感触が暖かくて、そこにいるのは楊戩なのかと尋ねたかったが、声すらうまく出せなかった。
「哪吒」
 その枕元に座っているのは哪吒の予想通り楊戩だった。意識が戻りそうなのか魘されているのか、苦しそうに唸る哪吒にまさかどこか痛むのではないかと心配になる。
 戦いを終えてから何日も雲中子の集中治療室で手当てを受けていた哪吒が、負った傷から感染症を起こすかもしれないような状態もようやく脱したと判断され、面会が許可されたのが今日であった。
 とはいえまだ意識は戻らず発熱もあるので、絶対安静と言われている。腕には何やら点滴が刺されていて痛々しい。楊戩は怪我のない哪吒の右手を握りしめながらその頬に触れていた。
「……っ」
「哪吒……大丈夫……?」
 あの後、楊戩は当然太乙からそれはそれはこっ酷く叱責を受けたものの、その事情を太公望から説明してもらい、地に埋まる勢いで謝罪をし、それでも哪吒を愛してるんですと皆の前で臆面もなく叫び、なんとか許しを得たのであった。
 それどころか哪吒の能力について詳しく説明を受け自らに傷を移し直そうとまでしたが、そんな事を哪吒が望んでいると思うのかとまた怒らせてしまったりもした。

 そもそも、なぜ楊戩が今こうして無事で崑崙にいるのかを説明すると、それが通天教主の遺言だったからだ。
「う……っく、ぅ……」
「哪吒、哪吒っ?」
 意識が戻ったのか、ピクッと動いた手を咄嗟に掴む。心配で堪らない気持ちになりながら呼吸が乱れたりしないかじっと見守っていると、やがてその瞼がうっすらと開かれた。
「哪吒っ……!き、聞こえる?」
「……よう、ぜん」
 しばらくして、ぼんやりしていたその瞳が意思を持って楊戩を見る。たったそれだけの事で楊戩はこの数日間ずっと押さえ込んでいた不安が爆発して、ダムが決壊したようにボロボロと涙が溢れ出してしまった。
「っどうした、どこか痛いのか」
 突然の事に哪吒は慌てて体を起こす。急に動いた事で久々に動かされた関節やまだ治りかけの怪我が痛んだし、くらりと軽い目眩さえも感じたが、そんな事など気にしていられない。
 数日ぶりに発された哪吒の声は酷く掠れていて、楊戩は止まらない涙に俯いて首をただ横に振ることしか出来なかった。
「僕は、どこも痛くないよ……哪吒の方が」
「そうか」
 哪吒は肩を震わせて泣いている楊戩の頭にゆっくり手を伸ばし、そっとその髪を優しく撫でる。
「怪我……痛くない?」
「ム」
「抱きしめていい?」
「……鼻水をつけるなよ」
「約束は出来ないかも」
「おい」
 まだ完治はしていない哪吒を気遣って緩く抱きしめると、熱が高いのかとても暖かい。スンスンと泣いて引き攣る楊戩の呼吸を肩で聞きながら、哪吒はその背を優しく撫でた。
「体、熱いね。しんどい?」
「平気だ」
 口ではそう言いながらもやはり気だるげな様子を見て、有無を言わさず支えながら横にならせる。
「これくらい、すぐに治る」
「せめて心配くらいはさせてよ」
「お前が酷い目に合ってなかったなら、それでいい」
「……うん」
「大丈夫だったのか、あのあと」
「うん、父が……守ってくれたから」
 戦いの後、王天君が持って来た手紙には楊戩を捕虜として崑崙へ送る旨が書かれていた。すでに妲己と王天君に荒らされ実権を失っていた通天教主はこんな時が来ることを予想していた。そのため、捕虜という形で金鰲から楊戩を脱出させ、守る事を選んだのだった。そしてそれはつまり、通天教主が元始天尊をそれほどまでに信用しているという意味でもあった。
 実際、金鰲の国民たちには楊戩を裏切り者として憎んでいる者も少なくはない。楊戩自身、落ちた王族として処刑されることまで覚悟の上だった。
「僕だけが生かされてしまった……妲己に踊らされて、なんの真相にも気付かなかった、間抜けな僕だけが」
 一度泣いた事で感情が抑えきれなくなったのか、楊戩は堪えようともせずハラハラと悲しみの涙を流す。
「……楊戩」
 哪吒はそんな楊戩を見て、寝転んだまま腕を広げた。
「難しい事はオレには分からない。ただ……」
「うん」
「オレは、お前が生きていて良かったと思った」
「……っ」
「過ぎた事をもう後悔しなくていいだろう」
 思わずその胸に楊戩が飛び込もうとした瞬間、病室の扉が無遠慮に開かれて太公望や太乙、天化たちがゾロゾロと入ってきた。
「まだ長くなるかのう?」
「先にちょっち面会させるさ!」
「どうしてこのタイミングなんですか!もう少しくらい待ってくれてもいいでしょう!」
「だからずっと待ってたんだっつーの!」
「態度のでかい捕虜さ」
 ホラどいたどいた、と壁際に追いやられて楊戩は部屋の隅で自らの涙を拭うしかない。さめざめと泣く背中を見て可哀想に思った武吉が「僕とハグしますか?」と慰めてやっていた。
 そうして皆それぞれ哪吒の様子を見て一言二言会話をすると、まだ体調が万全じゃないんだからと長居せずに病室を後にしていく。
「ようやく起きたかよ!これからは聞仲も交えてより強い崑崙軍を作って行くんだぜ!でも他国と争うためじゃねえ、何か起きた時に皆を守るためだ!」
「ム」
「オレ様とテメーはパトロール隊だってよ!な!太公望!」
「お主は本当にうるさいのう、哪吒の様子を見たならさっさと帰った帰った。それについてはまた改めて説明すると言ったではないか」
 その後も騒がしく話していたが太公望に再三帰るよう促され、雷震子は至って自然に「じゃ、またな!」と楊戩に声をかけ颯爽と立ち去って行った。楊戩はそんな"当たり前"の態度にさえまたウルッときてしまう。
「楊戩、お前さんもとにかく無事で良かったぜ。金鰲へはしばらく気軽に帰れねえだろうが……ま、いつか"和解"できる日が来るのを気長に待とうぜ。なんせ俺たちまだ"若い"んだからな!」
「韋護くん、哪吒の体調が悪くなるから早く帰ってくれる?」
「おいそりゃねえだろ!」
 つまらないダジャレにすっかり涙の引っ込んだ楊戩は太公望と向き合った。
「師叔……先日も話しましたが、やっぱり僕は……」
「楊戩、もう戦争は終わったのだ。出自が崑崙であろうが金鰲であろうが、敵も味方もなかろう」
「でも、僕は……!皆をずっと裏切って……」
 すると横で静かに哪吒の様子を確認していた太乙がゆっくりと立ち上がる。
「前に許すとは言ったものの、やっぱり個人的には君を全く恨んでないってわけじゃないけど」
「やめろ、太乙真人」 「……まあ哪吒もこう言ってる事だし。君みたいな強力な人材が魔導機開発の手伝いをしてくれるなら……そんなに悪い話じゃないと思えるかな」
 そんな言葉にしばらく驚いた後、楊戩は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、太乙真人さま……僕に出来る事があれば、何でも仰ってください」
 太公望はそんな二人の会話を隣で聞きながら「やれやれ、素直でないのう」と肩をすくめた。太乙が本当はあの後の楊戩の立場を心配していた事も、崑崙に来れる事になったと決まってホッとしていた事も知っている。
「何か言ったかい、太公望」
 太乙は少し気恥ずかしそうに咳払いをして、もう一度哪吒の様子を軽く見てから病室を出て行った。 「……して、楊戩よ」
「はい」
「哪吒も無事に目を覚ました事だし、これでもうお主も気兼ねなく 崑崙 (ここ) に居られよう」
「完全に気兼ねなく……とまではまだ言えませんが」
 太公望は言葉を濁しつつも"次"にやってくる戦い……"女媧との決着"に備えてこれから軍事力を強化していく予定だということを説明した。
「聞仲と黄飛虎も影で働いてくれておる」
「それは心強いですね、あのお二人が力を合わせるとなれば……」
「そういう訳じゃ。楊戩、お主の力も貸してくれるか」
「……はい、もちろんです。手伝わせてください、太公望師叔」
「うむ!」
 戦いを終えたばかりだというのに忙しそうな太公望は「やれやれ、早く全て終わらせてグータラしたいものじゃ」と溢しながら立ち去って行った。

 その背中を見送りすっかり静かになった病室で、哪吒は改めて「ハグするか?」と楊戩に尋ねた。
「あ、いや、もう泣き止んだ……から」
「そうか」
「ありがとう」
 哪吒の目が覚めた事で動揺して泣いたり抱きついたりしてしまったが、何よりもまずきちんと話すべき事があったと楊戩は姿勢を正した。
「その、僕は……15年も君のことを騙してた」
「……」
「その事を無かった事には出来ない」
「お前の事情なら王天君から……」
 哪吒の言葉を遮るように、楊戩はまっすぐその目を見つめた。
「許してほしいとか同情してほしいとか、そういう話じゃないんだ。ただ、どんな事情があれ君を……皆を騙したこと、うやむやにして一緒にはいられない」
「ケジメをつけたいという事か」
「うん、そう」
 それを聞いて哪吒はまた体を起こすと「分かった一発殴る」と拳を握りしめる。
「ストップストップ!まだ怪我もしてるし、病み上がりなのに暴れないでよ!」
「もうお前の暗い顔は見飽きた」
「それはごめんだけど!」
 鬱陶しそうな様子で点滴さえ抜きかねない哪吒を落ち着かせて、楊戩は改めて息を吸った。
「だから、まずは……ごめん。今までのこと全部」
「ム」
「君が目を覚ましたら、一体何から話そうかずっと考えてた」
 考えてた割には何も言えないくらいに号泣してしまったんだけど……と頬を掻きながら脳内で自嘲しつつ続ける。
「騙して、利用して、裏切ったこと……許されるべき事じゃない」
「……」
「だから、もう哪吒の前から姿を消す……」
 そんな選択肢も、思い浮かばなかったわけではない。
「でも、そんな事をしたって罪は消えないし、僕は"裏切り者"のままだ」
「……そうだな」
「だったら僕は哪吒のそばで、信用をマイナスから築き直したいって思ったんだ。何年かかっても、何百年かかってもいい。信じてもらえるまで……」
 二度と裏切らない、もう嘘は無い……などと、口にする事は簡単だ。しかしそれを心から信じてもらう事は本当に難しい。信頼を築くには途方もない時間がかかるが、崩してしまうのはほんの一回の裏切りで充分すぎる。
「僕のした事、許さなくていい。ただ、そばにいる事を許してほしいんだ」
「……オレは、お前を信じたい」
「哪吒……」
「何千年でもかけて、信じさせろ」
「うん、ずっと見張ってて」
 二人の間に"良い空気"が流れたが、楊戩は「いや、今は自分が許せないからナシ」と目を背けた。
「面倒なやつだな」
「あ!これだけは言っておかなきゃいけない事があったんだ」
「なんだ」
「もう自己犠牲の能力は使わないって約束して!」
「……」
 返事のない事くらい予想していた楊戩は「そもそも能力を使ったとして、僕が更に奪うけどね」と哪吒に手を伸ばす。
「っやめろ!」
 そしてその反応に満足したように笑って、優しく哪吒を抱きしめた。
「だから、もう二度と無茶しないで」
「……ム」
 まだ全ての"戦い"が終わったわけではない。だがこうして崑崙と金鰲の戦争は終結し、想い合う二人には今度こそ同じ道を同じ目標へ向かって歩き出せる時が訪れたのであった。




楊戩×哪吒 単発ネタ

▼【原作ベース】末っ子同士

 太公望が太上老君を探しに行き、しばらくが経った。普通なら見つかるわけが無いだろうが、誰もが「しかしあの太公望なら何事もやってのけるだろう」と思えてしまう不思議な力が彼にはあった。
 そんな折、地上では軍師太公望の代わりに楊戩が指揮を取り、周が進軍の準備を続けている。そして先の戦いで崑崙を失った仙人たちも周で各々過ごしているわけだが…。


「さあ哪吒、どこか動かしにくい部分はないかい?」
「ム」
 金光聖母との戦いで四肢を失った哪吒は長く太乙真人による修理を受けていたが、ようやく終わったらしい。
「金磚も更にバージョンアップしておいたよ」
「ム」
 大砲型だった金磚は球形になり、近未来的なフォルムになっている。哪吒はそれを見て早く戦いたいと思った。おあつらえ向きに、外からは楊戩が道士たちの修行相手をしているようで、激しい戦闘音が聞こえてくる。
 哪吒は壁に立てかけられている火尖鎗を手に取ると、一度も太乙真人を見ることさえなく飛び立っていった。


「おい宝貝人間よぉ!お前また進化してんじゃねぇか!」
 雷震子には99人の兄がいる。100人兄弟の末っ子だ。
「良い師匠で羨ましいぜ!太乙さんに感謝しろよ?」
「感謝?」
 一方、哪吒には2人の兄がいる。3人兄弟の末っ子なのである。
「なぜ奴に感謝せねばならん」
「おまっ…恩知らずな奴!誰が宝貝を作ってくれてると思ってんだよ!」
「俺は戦うために太乙真人に作られた。俺を戦わせるための宝貝を作るのは奴の義務だ」
「おめーなぁ…」
 一見奔放なように見えて、兄たちが大好きな雷震子。心を開いた相手には忌憚(きたん)なく笑いかけ、コロコロと表情を変え、オレ様オレ様と不遜な態度も無邪気で、周りに可愛がられる才能がある。
 比べて哪吒は生まれた時には実兄らはすでに仙界に上がり修行中だった事もあり、人見知りであまのじゃく、ワガママ放題なひとりっ子気質。更に殷氏、太乙真人という過保護な保護者のおかげでワガママは加速の一途を辿る一方。そして唯一、そんな哪吒を叱りつける李靖には怒り襲いかかる始末である。
 しかし心の成長よりも肉体の成長が早すぎて、何百年、何千年と生きている仙道たちは忘れがちであるが哪吒はこれだけの強さを持つにも関わらず、実際の年齢ですら本当にまだ子供で、その精神が幼い事は仕方もない事なのだ。
「ところでお前、兄貴たちはどうしたんだ?」
「あいつらか。知らん」
 金吒と木吒は金鰲島との戦いを終え、元の居住地へと帰って行った。2人と顔を合わせた事のある雷震子はその影が見えない事を不思議に思ったが、今その話を振られるまで完全に失念していた様子の哪吒に困惑する。
「会いたいとか思わねえのか?」
「接近戦の修行はしたい」
「そういうんじゃなくてよ…」
 だって、兄ちゃんなんだろ?そう言う雷震子に、哪吒は心底不思議そうな目で応える。
「キサマ、さっきから何を言っている」
「兄ちゃんどうしてっかなーとか思うだろ」
「思わん」
 別段あの2人を憎んでいるわけでもなく、ただひたすらに興味の無い哪吒の反応に雷震子はますます首を捻った。そもそも兄と一緒に暮らした記憶のない哪吒にとって、彼らはただ単に自分と同じ母親から産まれた人間であり、今は道士として修行をしている者である。
 ……という事実のみが知識としてあるばかりで、雷震子の「家族が、兄たちが大好きだ」という感覚こそ理解しかねるものであった。
「よし分かった、オレ様がお前に兄ちゃんとはどんなに素晴らしいモンか教えてやるよ!!」
「いらん」
「今日からオレ様を兄貴と呼んでいいからな!!」
「だまれ」


 ーーー


「おや、おかえり哪吒」
「フン」
 宿営地に戻ると出迎えてくれた太乙に対して鼻を鳴らして素通りする哪吒の後ろから雷震子が素早くゲンコツを落とした。
「こら!それが出迎えてくれた人に対する態度かよ!」
「なにをするキサマ」
「おかえりにはただいまだろ!!」
「ら、雷震子?どうしたんだい」
 いつもの事と哪吒の冷たい反応を全く気にしていなかった太乙は、突然現れた雷震子の説教に目を白黒させる。
「今日からオレ様が兄貴分としてこいつに教育してやんだよ!太乙っさん!」
「な、なにかな」
「あんたいっつもこんな態度取られてて怒らねえわけ!?その甘やかしがこいつをワガママにしてんだからな!」
「うぐっ」
 親の責任を問われて思わず言葉に詰まる太乙。良くないとわかりつつも、息子可愛さについ甘やかしている事を瞬時に見抜かれてしまった。宝貝を寄越せ、作れ、修理しろと乾坤拳を以って脅してくるが、本当に傷付けるつもりなどない、ただの脅しである事も分かっていながら…。
 哪吒は文句を言いたい気持ちだったが、それよりも面倒だと感じて飛び去ってしまった。
「だ、だって…あ、哪吒…」
「太乙さん、もしかしてあいつが自立しなくても良いと思ってんのか?」
「そっ、そういうわけでは!!」
 太公望と出会い、仲間という意識が芽生え、庇ったり守ったりするという事も覚えた。更に最近は天祥という弟分ができて、哪吒も少しずつは成長している。
「甘やかすのは優しさじゃねえぜ!!」
「ぐあっ!!」
 ど正論で叩きのめされた太乙は白旗を挙げて倒れ込んだ。かくして哪吒の情操教育計画がここに立ち上がったのである。


 時を同じくして、周軍の中心部……

「…そこにいるのは哪吒かい?」
「仕事中か」
「いいよ、入っておいで」
 書簡を机の端に置き、楊戩は肩を回して伸びをした。
「こんな時間にどうしたんだい」
 哪吒は、母も太乙も楊戩も、その他の誰もが、訪ねて行けばこんな風に笑顔で自分を迎え入れてくれる事に気が付いた。金吒も木吒も、話すときはいつでも笑顔だ。こちらからは一度たりともそれを返した事は無いというのに。

  ――別に、オレがそうして欲しいと望んだわけじゃない。

 なぜそんな事に対して「返してない」などと思わねばならぬのか。哪吒はそう考えてムスッとした。
「哪吒?遠慮せず入りなよ」
 入り口で立ったままの哪吒を不思議に思い、楊戩はにこやかにテントの入り口まで歩み寄ると小さな肩に手を乗せた。
 ――この温かな手も、声も、オレが望んだわけではない。だが、いつだって向けられるこの視線が、言葉が、もしも冷たかったら…。
 想像して、自分は一体どれほどの笑顔に囲まれているのかという事に哪吒は今更になって気が付いた。それもその筈、天然道士である武吉と天祥を省けば哪吒は現時点では崑崙山脈の仙道全てから見て「末っ子」なのである。どんなにワガママでも、愛想がなくても、可愛いのだ。
「…オレは、甘やかされているのか?」
「え!?」
 哪吒の口から漏れ出した意外すぎる言葉に楊戩は思わず大きな声を出してしまった。それから言葉の意味を考えてみる。
「うーん、甘やかす…という表現は相応しくないけど、君を大切に思ってはいるよ」
 哪吒は嘘だ。と思った。もしもここで、暇だから相手をしろ、せねば殺すと言ったところで、楊戩は哪吒を叱ったりせず、嗜(たしな)めるだけだろう。それを聞かずに暴れて、もしも宿営地の壁を崩したとしても、仕方ないなぁと皆で修理をするのだろう。
 間違いなく、哪吒は周囲から甘やかされているのだ。強くなればいい、戦えばそれでいいと思っていた。それは今もこれからも変わらない。しかし居た堪れず哪吒はこの場から消え去りたくなった。
「あっ、哪吒!どこへ行くんだい!」
「…離せ」
 くるりと踵(きびす)を返した哪吒にいち早く反応した楊戩が慌ててその手を掴み、優しく引き寄せると意外にも大した抵抗もなく腕の中に収まった。どうやら楊戩の傷を心配したらしい。
「せっかく来てくれたんだから」
「…キサマ、傷はもういいのか」
「え?ああ…あれなら原型に戻った時に全快したよ、それよりも酷かったのは哪吒の方じゃないか」
 遠い意識の中で聞こえていた、『楊戩を守る』という哪吒の言葉。手足を全て失っても、ニオイを追って探してくれた。
「ありがとう」
「なぜ礼を言う」
 楊戩は腕の中に収まって大人しくしている哪吒が愛おしくなってぎゅう、と抱きしめる。こんなに小さな体のどこにあれ程の強さが秘められているというのだろうか。
「楊ぜ…ん」
 振り向いた哪吒に口付ける。哪吒の体は風火輪で浮いているので、身長差はあるが苦なく口付ける事ができた。
「い…いきなり何をする」
「君を甘やかしたいなって思って」
「いらん」
 昼間、手合わせをした時に思ったが哪吒はまだ本調子では無いようだった。それとも、やはり楊戩の体を心配していたのだろうか。
「こんな時間にこんな場所へ来ておいて」
「そ、それは雷震子が…」
 問答無用で寝台へ運ばれた哪吒はあれよあれよと宝貝を外され、楊戩にひとしきり"甘やかされた"後は柔らかいシーツに包まれ、ポンポンと胸元を一定のリズムで優しく叩かれるうちに眠ってしまったのだった。
 翌朝、太乙の元へ戻ってきた哪吒が「ただいま」と返事をした事により、夜通し考えられた教育計画はどこへやら。たったそれだけの事で太乙も雷震子も「えらい」「すごい」と哪吒を褒めちぎる辺り、崑崙の末っ子はこの先も相変わらず甘やかされる運命なのであった。

▼【原作ベース】ファクトリーリセット

 ――電子機器などの設定が意図せず変わってしまったり、元の状態に戻すのが困難な場合、全ての設定やデータを工場出荷状態に戻す機能。それがファクトリーリセットである……。

「あーーーーっ!!!!」
 その太乙真人の地が割れるかと思うほどの悲鳴は蓬莱島全体…いや、それどころか、神界にまで響き渡ったとか、渡らなかったとか。
「一体何事でい!!」
 たまたま近くを見回り中だった雷震子が、いの一番に太乙のラボへ駆けつけ飛び込む。
「大丈夫か太乙さん!」
「らっ、雷震子……」
 しかし勇んで飛び込んだ雷震子の目の前に広がっていた景色は特に荒れた様子もなく、全くいつも通りの様子である。そして先程の大絶叫の主、太乙真人は少しの沈黙の後、床に (くずお) れた。
「わっ、ちょっ…」
 突然の事に雷震子は驚いたが、慌てて駆け寄り太乙を支える。隣の修理台の上には哪吒が寝転がっていた。どうやら眠っているらしく、何の反応も無い。
「どした?太乙さん、間違ってどっか壊したか?」
 しばらくは怒って暴れるだろうが、そんなのはいつもの事だろう。ここまで力なく座り込むほどの何が。
「……リセットしちゃった」
「は?」
「哪吒のデータを全部リセットしちゃったんだぁー!!」


 ーーー


 どうやら、太乙は哪吒の頭部に埋め込まれている霊珠のメンテナンスをしようとして、間違えてファクトリーリセットのボタンを押してしまったらしい。
「なんでそんな余計なもんを付けたんじゃ」
 騒ぎを聞きつけてやってきた太公望が呆れ顔でまだ眠り続ける哪吒の頬を突く。
「備えあれば憂いなしというじゃないか」
「ならバックアップは無いのか」
「うっ……」
「それこそ備えるべきであろうが」
「だってなかなか取らせてくれないんだよ……」
 そもそも、本当にリセットされているのか?哪吒が目を覚さないことには真偽すら分からない。
「怖いんだ。目を覚ました哪吒が、私を見てなんて言うのか」
「だからと言って永遠に眠らせたままに出来るわけがなかろう。わしはこやつが蓬莱島を守ってくれておるから安心して怠けられるんじゃ!」
「そもそも怠けんじゃねーよ」
「哪吒にいちゃん!」
 天祥を連れて戻ってきた雷震子がツッコミながら洞府へと入ってくる。修理台に駆け寄り、普段と何も変わらず眠っているだけに見える哪吒に天祥は何度も呼びかけた。
「太乙よ」
「わ、わかったよ」
 太公望に指示された太乙は意を決して眠る哪吒に震える手を伸ばす。なんらかの操作の後、ピクリとその手が動きパチリと哪吒は目を覚ました。
「……ム」
「哪吒にいちゃん!」
 体を起こし、太公望たちを無言で見回すその瞳は非常に冷たく、明らかに敵意が篭っている。
「誰だキサマら」
 太公望はその目に初めて会った時、いや、それ以上の警戒を感じた。哪吒にとっては全く知らない場所で目覚め、更に知らない仙道4人に囲まれているという事になるのだから当然の反応である。
「哪吒にいちゃん!僕のこと本当に忘れちゃったの!?」
「キサマなど知らん」
 それ以上近付くな。そう言い放ち乾坤拳を構える哪吒に天祥はショックが隠せない。哪吒は視界に映る自分の腕になにやら違和感を感じたようだった。
 哪吒にとって『工場出荷時』というのは、殷氏の元に誕生した時であるらしい。当然、太乙の事さえも分からないようで、一触即発の空気を纏っている。
「ここは……どこだ」
「失礼します!!」
 そこへ顔面蒼白の楊戩が飛び込んできた。哪吒がリセットされたと聞いて、仕事を投げ出したい気持ちを抑え込みなんとか緊急の物だけは片付けてから哮天犬で飛んできたのだ。
「哪吒……っ」
「おまえ、強いな」
「こら待て、哪吒!」
「乾坤拳!」
 楊戩は放たれた乾坤拳を紙一重で避け、太乙は天祥を抱き上げ避難させる。
「雷震子、天祥くんを遠くへお願い」
「お、おう!」
「太公望師叔、ここは僕に任せてください」
「楊戩、しかしのう……」
「九竜神火罩!」
 とにかく捕縛しようと太乙が九竜神火罩を射出したが、楊戩が哮天犬を使い瞬時に哪吒を抱えてラボの窓から飛び出しそれを避けた。
「離せ!」
「太乙真人さま!混乱している哪吒を暗闇に閉じ込める事はご容赦ください、僕が話してみますから!」
 突如として知らない場所で目覚め、知らない仙道に囲まれた哪吒の気持ちを思い、楊戩はそれが安全策だと理解しながらも九竜神火罩に捕まえる事を (いと) った。
「楊戩、いけない!」
 今の哪吒は知らないはずだが持ち前の戦闘センスか、体内に埋め込まれている火尖鎗を素早く手に取り、楊戩に切りかかる。対する楊戩は三尖刀で応戦し、哪吒に声を届けるチャンスを探す。
「哪吒……話を聞いてくれ!」
「楊戩、無茶をするでない!そやつはお主の知る哪吒ではないのだ!」
「ですが!!」
 記憶を失っていてもその強さは衰えない。ましてや、こんな訳の分からない状況で敵意を剥き出しにする哪吒に対し、楊戩には 躊躇 (ためら) いがある。
「哪吒、思い出して!」
「だまれ、キサマなど知らん」
「う、ぐっ!!」
 伸びた火尖鎗の切先に腹部を焼き貫かれた楊戩は蓬莱に落ち、これ以上は看過できんと太公望が哪吒を亜空間に閉じ込めた。
「無事か楊戩!」
「ええ、大丈夫です……」
 楊戩は半妖体になり、腹部のダメージを抑えた。
「とにかく哪吒を止めん事には…」
 亜空間に閉じ込められた哪吒は更に怒り、ここから出せと暴れている。このままでは落ち着いて話もできん、と太公望が太極図を構えると楊戩が大きな声を上げた。
「太公望師叔!いま哪吒は混乱しているんです、どうか手荒な手段は…!」
 宝貝の力を奪ってしまう太極図は哪吒の天敵である。突然知らない場所で仙道に囲まれ、体の自由を一方的に奪われたとしたら……。先に楊戩は太乙に向かって九竜神火罩を使わないで欲しいと言ったが、太極図など尚更にもっての (ほか) だった。
「お主の言わんとする事は勿論わかっておるが」
「太乙真人様!哪吒の記憶は本当に全て消えてしまったのですか!?」
「ううーん、最後に取ったバックアップはいつだっけなぁ。あれ?そういえば……」

 太乙は何かを思い出したように慌ててラボへ駆け込み、やたら分厚い辞典のような"霊珠設定マニュアル"を持って戻って来た。
「なんじゃそりゃ」
「えっと、確かここに……!」
 太乙は分厚いマニュアルを地面に置きしゃがみ込んでページを急いで捲る。そしてファクトリーリセットの項目を開き、しばらく文字を追った後ガバッと体を起こした。
「ああ思い出したよ、楊戩ありがとう!ファクトリーリセットボタンを押した時、誤操作した場合の保険に自動でその時点の臨時バックアップを取る設定にしてたんだ!」
 それを抜き出して、もう一度ロードさせれば元に戻るはずだ!とガッツポーズをする。
「太乙よ、このマニュアルによれば臨時バックアップは2時間で消滅するとあるぞ」
「バックアップデータはすごく重いから、不要だった場合はさっさと消えるようにしてあるのさ」
「おいおい、あれからどれくらい経ったよ!?」
 哪吒が亜空間に閉じ込められたのを確認して戻ってきた雷震子と天祥が大慌てで哪吒に呼びかけた。
「やい哪吒!!大人しく頭をイジらせろ!!」
「哪吒にいちゃん、太乙さんに直してもらって!」
「だまれ、ここから出せ!」  ギャーギャーと言い争う雷震子たち。そこへ動けるまでに回復した楊戩が近寄ってきた。
「哪吒……落ち着いて聞いて。君は今、記憶を失っているんだ。ここにいるのは全員、君の仲間なんだよ」
「仲間?」
「そう、数多の強敵と共に戦って来た仲間じゃ!」
「テメーはこの蓬莱島をオレ様と一緒に毎日パトロールしてんだぞ!」
「こんなバカそうなやつらがオレの仲間なわけがない」
「なんだとコノヤロー!!」
 雷震子が9割ほど説得の邪魔をしているように感じなくもないが、このままでは (らち) があきそうにない。リセットしてからどれくらい時間が経ってしまっているのかも気掛かりだ。
「太乙、楊戩、すまぬが太極図を使わせてもらうぞ」
「時間が無いので、そういうことでしたら……仕方ありませんね」
「安全に作業ができるなら、私は一向に構わないよ」
「では、太極図よ!」
 アンチ宝貝の効果により、宝貝人間である哪吒が全ての動きを止める。同時に背中に宝貝の翼を背負う雷震子もズシリと体が重くなりその場に座り込んだ。
「ありがとう太公望、あとは任せて」
 固まっている哪吒を亜空間から連れ出し、太乙は大急ぎで洞府へと舞い込んでいった。


 ーーー


 こうして太乙は無事に臨時バックアップを回収し、哪吒の記憶状態を元に戻すことに成功した。ラボから出て来て、寝台に意識のない哪吒を横たえると、手に持った九竜神火罩を楊戩に差し出す。
「今後のために今日のこのバックアップはきちんと保存しておくよ!もう大丈夫だとは思うけど、念のためにコレを預けておくから、私はもう少しラボに籠るね!」
 慌ただしくラボへ戻って行った太乙を見送り、皆が寝台の哪吒を取り囲む。
「……ム」
 目を覚まして体を起こした哪吒の纏う空気に棘はない。相変わらず無表情な瞳だが、確実に先程までとは違う。哪吒の戦闘狂で無感情である性格は最初から今までずっと変わっていないと思っていたが、こうして初めて会った頃と見比べると、随分と仲間らしくなっていたのだ。
「な……哪吒よ」
「哪吒にいちゃん、大丈夫?」
 リセット中の記憶はあるのかないのか?あったとすると、またキレるのではないか?とその場にいる全員が思わず身構えたが、哪吒は黙ったまま楊戩を見る。
「おいテメーなんとか言え!」
 相変わらず哪吒は何も言わないが、楊戩はその瞳が不安げに揺れている事に気付いた。どうやら、全て覚えているらしい。
「太公望師叔」
「うむ、もう大丈夫そうだの。ここは楊戩に任せよう」
「は?おい!ちょっと待て、こら!離せ太公望!」
「ええいやかましい!」
「にいちゃん、また明日一緒にパトロールしようね!」
 扉が閉められて騒がしい声が聞こえなくなると、楊戩は何も言わずに哪吒を抱きしめた。
「……良かった、本当に」
 心の底からそう漏らす。
「怒ってないのか」
「まさか!」
 寝台の上で腰掛け、抱きしめられたまま哪吒は自覚もなくホッと息を () いた。火尖鎗に焼かれ、焦げて破れた服の内側にはまだ痛々しい傷跡が見える。いくら楊戩の回復力を (もっ) たとしても、数日はズキズキと痛むだろう。
「本当に平気だよ、こんな傷……それよりも」
 もしも君が、僕を完全に忘れてしまったなら……楊戩はそう呟いて、哪吒を抱く腕により一層力を込めた。
「どんな手段を取ってでも、君の記憶を手に入れようとしただろうね」
 例えそれが時を巻き戻すだとか、自然の (ことわり) に逆らう行為だったとしても。
「ばかか」
 楊戩ならやりかねない。太公望に神農の居場所を吐かせ、彼の持つスーパー宝貝で過去へ飛び、リセットボタンを押す太乙を止めたか、そもそもそんなものを作らないように止めに行くかもしれない。
 タイムリープをした過去で枯葉を一枚踏んだだけでも、未来は大きく変わってしまうとも言われているにも関わらず、楊戩の目には迷いがない。
「それほど僕の世界には君がいないと意味がないということだよ」
「記憶が無くてもオレはオレだ」
「違うよ」
 一瞬でも、本当に失うかと思った。出会い、ぶつかり、共に戦い、少しずつ打ち解け、強大な敵をも力を合わせて打ち破った大切な仲間を。
 記憶をなくしても確かにそれは哪吒だが、一緒に歩んできた哪吒ではない。楊戩が抱きしめたいのは、今こうして話している哪吒なのだ。
「"君"は今ここにしかいない」
 そう説き、楊戩は哪吒の頬に口付けた。哪吒は驚いたようにピクリと反応したが抵抗はしない。そのまま2人の視線が合わさった瞬間、ラボの扉が乱暴に開かれた。
「そろそろ白鶴童子が迎えにでも来るんじゃあないかなぁ楊戩!!」
 教主さまはお忙しい身なのだから、どうぞお戻りくださいと嫌味たっぷりに圧をかけ、しっかり九竜神火罩を回収してから楊戩を洞府の外へ蹴り出す。
「いてて、た、太乙真人さま!」
 苦笑する楊戩を睨みつけて扉を勢いよく閉め、その扉いっぱいに魔除けの札を貼り付ける太乙の背中を、哪吒は心底呆れながら眺めていた。
「油断も隙もあったもんじゃないよ!」
「そもそも、誰のせいだと思っている」
 哪吒の冷静なツッコミは太乙には届かず、虚しく消えていった。

▼【原作ベース】親の心子知らず

 その日は雷震子が用事で周に降りていて、蓬莱島のパトロールに回ったのは哪吒と天祥だけだった。それを知っていた楊戩は長く執務作業ばかりしていた事もあり、運動がてら適当なタイミングで手伝いに行くと約束していた。
「ふう……そろそろふたりの様子でも見に行こうかな?」
 作業にひと段落ついた所で凝り固まった背中を伸ばし席を立つ。外は良い天気で暖かい風が心地良かったが、歩き出した瞬間、楊戩はなにか妙な胸騒ぎを感じた。


 ーーー


 哮天犬にふたりのニオイを追わせて蓬莱島を進む。この嫌な予感がただの杞憂ならいい。そう願っていたが遠くに見えてきた小さな影にドキッとした。池のそばでしゃがみ込んでいる天祥と、倒れている哪吒だ。
「哪吒にーちゃん!!」
 今にも泣き出しそうな声で天祥が叫んでいる。楊戩は大急ぎで哮天犬を着地させる事も忘れて地面に飛び降りた。
「天祥くん!」
 駆け寄る楊戩に気付いた天祥はバッと振り返り、その姿を目にするとくしゃくしゃに泣き出した。
「楊戩さん、どうしよう……っ哪吒にーちゃんが……!」
「一体どうしたんだ!?」
 意識を失っているのかと思ったが、横倒しになった哪吒は辛そうに荒い呼吸を繰り返している。
 池に落ちたのか、その体はずぶ濡れだった。
「哪吒、哪吒!」
「う……っ」
 様子を見ようと肩に触れた瞬間、哪吒の顔が苦痛に歪む。その反応に驚いて手を離すと、服の袖から腕を伝って血が流れ出した。
「どうしよう、ボクのせいで……」
 近くの岩山が崩れた跡があり、どうやらあそこから落ちた天祥を庇って代わりに池に落ちたらしい。
「天祥くん、太乙真人さまを呼んで来てくれるかい?」
「う、うんっ」
 取り乱していた天祥は楊戩が来てくれたことで安心したのか、涙を拭いて立ち上がった。すぐに走り去った背中を見送って、哪吒に向き直る。
「ごめん哪吒、触れるよ」
 楊戩はなるべく刺激しないように注意しながらゆっくりとその体を抱き上げた。痛みに耐えるように、血が出るほど唇を噛み締めて哪吒は震えている。そのままそっと哮天犬に乗り、慎重に天祥の後を追った。


 ーーー


 哪吒は自分の身に一体何が起きているのか分からなかった。
 楽しそうに遊んでいた天祥の足場が崩れ、咄嗟に体が動いて、混天綾を使う暇さえ無く池に落ちた。すぐ陸に上がったが、しばらくすると酷い目眩に襲われて倒れ込んでしまった。次に身体中が焼けるように痛み、その後はうまく息が吸えなくなった。初めて感じる"痛み"に意識が朦朧とする中で、必死に自分を呼ぶ天祥に「大丈夫だ」と返したつもりだが、声になったかは分からない。
 ぐるぐると世界が回り続けているような感覚が止まらず、上下の感覚すら危うい。地上にいるのに、溺れているようだ。そんな時に、楊戩のニオイがした。
「哪吒、聞こえる?」
 楊戩は腕の中で蒼白になってゼエゼエと苦しそうな呼吸を繰り返す哪吒に声を掛け続ける。意識が混濁しているのか、譫言(うわごと)のように何か言っているが言葉になっていない。
「よ……っ、ぜ、ん……」
 その中で不意に名前を呼ばれた気がして、慌てて腕の中の哪吒を見ると閉じられたままの目からポロポロと涙が溢れていた。太公望は「宝貝人間といえど、あやつも感情が昂れば泣く事もある」と言っていたが楊戩は実際にその姿を見た事がない。
「哪吒……」
 余りにも辛そうな様子に、胸が締め付けられる。その時、向こうから猛スピードで飛んでくる黄巾力士が見えた。
「太乙真人さま!」
「哪吒は!?」
「ひどく苦しそうです」
 太乙は哪吒の様子を見て、すぐに「雲中子の所へ」と指示をした。
「雲中子さまですか?」
「ああ、これは私では直せない」  辛いだろうけど、原因は分かってるからもう大丈夫だよと言い切る太乙に楊戩はホッとした。「哪吒をこちらへ」と太乙が手を伸ばし、それに従おうと動いた瞬間、哪吒が弱々しく震える手で楊戩の服の裾を掴んだ。
「哪吒?大丈夫、太乙真人さまだよ」
 そう声をかけるが、哪吒は楊戩から離れる事を嫌がるように首を振る。
「……分かった、無理矢理は逆に良くないし、すまないけど楊戩、そのままついて来て」
「わかりました」


 ーーー


 雲中子は哪吒を見るなり、これは全身ハデにやらかしたねと言った。
「とにかく診るからそこに寝かせて」
 哪吒の皮膚は脆くなっているようであちこちが擦り切れた傷になり血が出ていたが、雲中子は躊躇(ためら)いなく頬や手に触れ、まじまじと様子を確認している。その度にまた血が滲み、哪吒は痛そうに呻いた。
「うん、これなら大丈夫だよ、待っててね」
「頼むよ」
 早足でラボに消えた雲中子を見送って、楊戩はどういう事なのか太乙に尋ねた。
「蓮の花が掛かる病気みたいなものだね」
 腐敗病だと太乙は言った。蓮の花は地中菌に侵され、乾燥すると変色し腐ってしまうらしい。
「池の水が良くなかったのですか?」
「多分」
 混天綾もあるから、まさか無防備に池に落ちた上に全身濡れてくるなんて考えてもいなかったと太乙は苦い顔をする。
「わかりやすく今の哪吒の感覚を伝えるとすれば、全身火傷してるような感じかな」
 診察台の上で蹲る背中は辛そうだが、触れると余計に痛いだろうからとただ見守る事しかできない。
「楊戩、仕事は大丈夫かい?私はここにいるけど…」
「ここにいます」
 仕事なんてどうでも良いと言わんばかりに楊戩は食い気味にキッパリとそう答えて、哪吒の目の前にしゃがんだ。
「哪吒、すぐ雲中子さまが薬を作ってくれるからね」
 こんな風に苦しむ姿を見るのは、呂岳の殺人ウイルスに感染した時以来か。肉体が死んでも大丈夫だと哪吒は言っていたが、そういう問題ではない。今、哪吒が苦しんでいる事は紛れもない事実で、大切な人が苦しんでいる姿を見るのは辛いものだ。
「機械的な故障なら、すぐに私がいくらでも直してやれるのにね……」
 太乙はため息をついて、近くの椅子に腰掛けた。
「楊戩も、あまり深刻にならないようにね」
「……はい」
 怪我をした本人よりも、それを横で見ていた者が貧血で倒れる事がある。あまり冷静でない楊戩の様子が心配で太乙は座るように勧めたが、診察台から離れようとしなかった。


 ーーー


 雲中子が何やら怪しい色の注射を打ち、しばらくすると哪吒の呼吸が落ち着いてきた。それを見て、更に体の傷にもバイオキシンZをべちゃべちゃとくっつけて治す。
「よし、これでもう大丈夫だよ」
「ありがとう、雲中子」
「ありがとうございます」
「目が覚めたら連れて帰っていいからね」
 よしよしと哪吒の頭を撫でて、雲中子は凝った肩を回しながら空気が悪いとぼやき窓を開けた。その様子を見て、太乙は腰を上げる。 「心配してるだろうし、責任を感じてそうだったから、私は天祥くんに哪吒の無事を伝えてくる。哪吒の目が覚めたら連れて帰って来てくれるかい?」
 太乙も哪吒を心配しているが、楊戩に任せることを選んだ。
 女媧との戦いを経て、哪吒は太乙に頼らず自らの特訓で強くなることを覚えた。蓬莱島でパトロールという任務を与えられて、天祥という弟分も出来て、精神的に成長している。哪吒が親離れするのと同時に、太乙も子離れしなければならないのだ。
「太乙真人さまがここに残らなくて良いのですか?」
「ああ、君に任せる」
 そんな目に入れても(殺されかけても)痛くないほど可愛がって来た子であり弟子である哪吒を任せる相手として、蓬莱島を取りまとめる教主という楊戩は強さ、知性、どこをとっても非の打ち所がなく、もはや認めざるを得ない人物であった。
「これがスパダリに娘を取られる親の気持ちか……」
「スパ……?」
 さめざめと泣き真似をしながら太乙は黄巾力士で飛び立って行った。


 ーーー


 傷も綺麗に治り、貸された寝台で穏やかに眠る哪吒の手に触れる。彼は強いから何も心配など無いと思っていたが、こうして宝貝人間ゆえに苦しむ事もあるのかと楊戩は深いため息を吐(つ)いた。
 その時、ふっと哪吒の目が開かれて視線が合う。
「……哪吒、気がついた?」
 起きたばかりでまだ意識がボーッとしているのか、すぐに返事は無かった。目が覚めたことに安堵し、楊戩が優しく赤髪を撫でると緩く拒否するように寝返って反対側を向いてしまう。
「悪かった、迷惑をかけて」
「なっ…どうしてそんな」
 楊戩は突然の言葉に驚いて顔を見ようとしたが拒まれた。
「お前も仕事があるだろう」
「そんなもの、遅らせたり誰かに頼ったり…いくらだってどうにでもなるさ」
 仕事は、もしも責任者がいなくなったとしても、意外とどうにか回っていくものだ。だが哪吒はこの世にひとりしかいない。どちらを優先させるべきかなど、考えるまでも無かった。
 もしや先程のため息を聞かれてしまったのかと思い至って、楊戩は苦笑した。
「哪吒、本当に大丈夫だから」
「……」
「君が無事で良かったと思って、ホッとしたんだ」
 こっちを向いてよ、と引き寄せても哪吒は聞かない。しかし少し力を強めれば、それ以上抵抗する事は無く楊戩の腕の中に収まった。そのまま抱き上げて寝台に腰掛けると、哪吒は胸元に顔を押し当てるようにして顔を隠してしまった。
「……哪吒?」
 ポタッと涙の雫が楊戩の膝にこぼれ落ちて慌てる。
「まだどこか痛い?」
 首を振る哪吒の表情は伺えないが、押し黙ったまま泣くのを堪(こら)えるように震えている。
「……っ」
 小さな声で哪吒は太乙の名を呼んだ。
 こんな時に、目を覚ますといつも側にいた太乙がいなかったのが不安だった。戦う為に作られた宝貝人間が強くなければ意味がない。池に落ちただけでこんな風になる哪吒に失望したのではないか。
 ……そんな風に考えて、止まらなくなった。
 楊戩は、哪吒がいくら自分に気を許してくれていても、まだ太乙の代わりにはなれないのだと思い知って苦笑する。
「哪吒、太乙真人さまが君を嫌うわけないじゃないか」
 馬鹿だな、どんなに彼が君を愛しているのか、分かっていないだなんて。そう言って小さな体を抱きしめた。


 ーーー


「哪吒にーちゃん!!」
「おかえり、遅かったね」
 ふたりが太乙のラボに戻ると、涙目で駆け寄って来た天祥が哪吒に飛びつく。
「もう痛くない?」
「ああ」
 いつも通りの二人に安心して楊戩は微笑んだ。
「やれやれ何事も無くて良かったよ。私もそろそろ子離れしなきゃね」
 楊戩という『スパダリ』が出来た訳だし…とジト目で呟く太乙の言葉の意味は相変わらずよくわからなかったが、楊戩は哪吒こそ早く親離れしてくれないかな、なんて思った。
「うーん…まあでも、ゆっくりで良いんじゃないですか」
「うん?君がそう言うとは意外だな」
「心配しなくても、いつか子は親から離れていくものですよ」
「そうか…寂しいなあ」
 楊戩は「今から寂しがっても仕方がないほど先の話になりそうだけど」と思いつつ、悔しいのでそれを口にはしないのだった。

▼落とし物

準備中

▼蓮の香

準備中

▼楊戩くんとお兄ちゃん

準備中

▼【銀鉄パロ】泣かないで、僕のヨハン

――どこか遠くで、鐘が鳴った。

 ふと気が付くと、青い花々が目の前を流れていく。
「あれは、りんどうの花だな。もうすっかり秋だ」
 軋む線路の音と、むせ返るほどの深い森の馨りに段々今の状況を思い出す。
「どうした。まだ寝ぼけているのか?」  そう、僕は旅をしていたんだった。慌ただしく変化する日々も、不意に突き付けるような違和感もここには無い。ただ穏やかな時間だけが流れている。
 すると遠くに何かが見えてきた。
「そろそろ窓を閉じておけ。もうすぐ着く」

――あれは、駅か。

 やがて汽車はギギギと音を立てて小さな無人駅に停車したみたいだった。
「少し降りるか。あまり遠くまでは行くな」
 僕は窓を閉じて、汽車を降りた。


   【泣かないで、僕のヨハン】


■01


 その駅は壁も床もどこもかしこも真っ白で、まるで小さな美術館のようだった。
「こんな森の中に……不思議な場所だな」
 木漏れ日を追いかけて進むと、古びて樹木に飲まれかけている階段があった。ぼくは何かに導かれるように昇っていく。途中から木の根が張り出して昇れなくなっているその先の踊り場には腕を広げた女神様がいた。
「眩しくて、顔が見えないな」

――あなたはいったい……。

「……そろそろ汽車に戻るぞ」
 不意に辺りに鐘の音が鳴り響く。

――そうだ、戻らないと。

 汽車に乗り遅れると、何か悪い事が起きる。何故かわからないけど、そんな気がして僕は急いだ。
「こっちだ。急げ」
 木の根に足を取られて転びそうになりながら走った。

――早く、早く。

 慌てて乗り込んだ瞬間に真後ろで扉が閉じられて、汽車が動き出した。
「危なかったな……。大丈夫か」
 息を整えてから窓の外へ身を乗り出すと、遠くにもうすっかり小さくなった女神様が見えた。

――どうか、この旅の無事を見守ってください。

 そう心の中で呟いて、僕は席に座った。
「少し疲れただろう。次の駅までしばらく眠れ」
 やがて汽車が次の駅に止まるまで、気付けば僕は眠りに落ちていた。


■02


 目が覚めて窓の外を眺めていると不意に辺りが暗くなって、唐突に"夜"になった。空には星々が煌めいて、忙しなく巡り続けている。
「……どういう原理だ」

――さっきまで間違いなく昼間だったのに。

 それにしても綺麗だ。回る天体をもっとよく見たくて、僕は停車した汽車の扉から思わず飛び出した。草原に寝転がって夜空を見上げると、大きな大きな空が丸い軌道を描いて流れ続けているのがわかる。
「ここは良い場所だな」

――ずっとこんな場所にいられたら、どんなに楽しいだろう。

 そう呟くとなぜか涙が出そうになった。
「あっちに行ってみるか」
 北の空にいっとう明るく輝くひとつの星に呼ばれるように僕は草むらから起き上がって歩き出した。

――なんて綺麗なんだろう。

 この世界はまるで、憎しみや悲しみから切り離されているみたいだ。
「いつでも、こんな風に綺麗なものばかり見ていられるなら、お前を……」
 手が届きそうな気がして星へ手を伸ばした。そうしたら光が飛び散って、世界はまるで脆いガラスで作られたハリボテのように、途端にガラガラと崩れ始めた。
「早く戻るぞ、汽車へ走れ!」
 僕はまた転びそうになりながら汽車へ駆け込んだ。窓の外を見るとさっきまでの美しい夜空は消えて、辺りは真っ白な静寂に包まれている。
「……驚いたな。平気か」
 ここから先へ行ってはいけないと、そんな風に言われた気がした。まだドキドキと胸が高鳴っている。次の駅が見えてくるまで、ぼくは空に星の残照を探し続けた。


  ■03


   次に汽車が停まったのは辺り一面が水に覆われた駅だった。風に揺れる波以外、見える景色に動くものはひとつもなく、不気味なほどに静まり返っている。
「誰も……いないのか」
 僕は靴を脱いでゆっくりと水の中を歩き出した。ひんやりとした水はとても綺麗で、透き通って底が見える。どうやらここは沈んだ街のビルの屋上のようだった。
「静かすぎる。どこか知らない世界みたいだ」

――ここは本当に静かで、寂しいけど……どこか安心するような気持ちにもなる。

 水中に目を凝らして、足元に広がるかつての巨大都市を見下ろした。こんなにも綺麗な景色、見た事がない。ぼくは夢でも見ているのだろうか。このままこの穏やかな場所に留まるのも悪くないと思うけど……。遠く聞こえた鐘の音に呼ばれた気がして、ぼくは来た道を引き返し始めた。
「そろそろ汽車が出るみたいだな」
 水に沈んで時が止まったまま華やかな面影を抱いた街は美しくて、でもとても悲しくて……。どうしてかわからないけれど、泣きながら歩いた。
「……泣くな」
 どこまでも続く水平線の上に浮かぶ線路の上で汽車は静かに僕を待ってくれていた。濡れた足のまま車内に足を踏み入れる。
「早く座れ。じきに動き出す」
不意に足元がグラリと揺らいで、僕は慌てて席へ座るのだった。


■04


 やがて汽車はまたどこかへ停まったようだった。

――ぼくは、ずっと誰かと一緒だった気がする。

 この駅には何もない。目の前にただ道だけがある。振り返ると汽車は消えていた。僕はひとりで行くんだ。迷っても、進むしかない。  別れ道の度に目を閉じる。遠くから聞こえる鐘の音を頼りにして。

 そうして森を抜けると、"彼"がいた。

「……随分遅かったな」

――ぼくたち、ずっと一緒だったじゃないか。

「よく思い出せ。お前はここまでずっとひとりだった」
 旅路を思い出せば、確かにそこに彼はいなかった。そうか、僕は……ここまでひとりでやって来たのか。
「これからは、いつまでも一緒だ」
 そうして僕たちはどこまでも続く道を歩き出した。今度こそ、ふたり手を繋いで。

 鐘の音に、耳を澄まして。

▼【幼稚園パロ】蓬莱幼稚園の問題児

 ここは蓬莱幼稚園……

 近隣の崑崙地区と金鰲地区に暮らす人々が、就学前教育の為に子供を通わせる小さな学校。通天教主、原始天孫、竜吉公主の3名による理事の元、子供教育にアツい情熱を抱く聞仲が園長を務めている。
 理事会内部の派閥争いや、体の弱い竜吉公主に代わり度々現れる燃橙道人が裏の理事長などと呼ばれている件に関しても語り草のひとつではあるが、此度はここに通う子らの一幕に照明を当てよう。


 ***


 蓬莱幼稚園の朝は早い。低学年クラスを受け持つ楊戩は朝の預かり保育の時間になると、出迎えをする為に入り口へ向かう。まずはこの辺りの地主家庭の車が門前に停まった。
「おはようございます姫発さん、おや今日は泣いちゃったんですか」
「そうなんだ、すまねえ」
 雷震子は仲の良い兄である姫発に手を引かれてメソメソ涙を拭きながらやってきた。どうも自分で服のボタンを留めたかったが、時間がなくやらせてもらえなかったらしい。
「じゃあ行くけど、頑張れるか?雷震子」
「うん」
「偉いぞ!」
 兄に褒められて少し元気を取り戻した雷震子はしっかりとした足取りで自分のクラスへ向かう。
「ちゃんと手洗いうがいするんだぞ!」
「うん!」
 兄ちゃんは仕事に行くからな!と車から手を振る姫発に雷震子も小さな手を一生懸命に振り返す。ここに通い始めた頃はなかなかお別れ出来ず、姫発が仕事に遅刻するとの事でお目付役の次兄、周公旦が同行していたが、随分とあっさり離れられるようになったものだ。
 それと比べて……李家は本当に毎朝大変だ。現れたのは学生服に身を包んだ太乙と、その腕に抱かれる哪吒。
「おはようございます、太乙くん、哪吒」
「おはようございます」
「ム」
 太乙は忙しい李夫婦に代わって従兄弟の哪吒の送り迎えをしている近隣の高校生である。放任主義で淡白な李夫婦とは対照的に、弟に向けるにしては重すぎる愛情を哪吒に注いでいた。
「では本日もお預かりしますね」
「う……うぅ……哪吒ぅ」
 今生の別れかと言うほどに寂しがる太乙に、冷たくその顔を押して腕の中から逃げたがる哪吒。この問答は毎朝5分は続く。
「ようぜん」
「ああ、はいはい」
 太乙の甘やかしのせいか、抱き癖が抜けない哪吒は幼稚園にいる間はほとんどずっと楊戩に抱っこをせがむ。他の先生には少し触れられる事も嫌がる哪吒が自分にだけ甘えてくれるのが嬉しくて、楊戩もつい求められるだけ応えてしまうのだが、特別扱いしないように、と聞仲から何度も怒られていた。
「先生、哪吒をよろしくお願いします……!」
 最後にハグをしたがる太乙に楊戩の腕の中から容赦なく蹴りを入れる哪吒。その足は素足のままだ。締め付けられる感覚が嫌いらしく、どうしても靴下さえ履いてくれない。これが、楊戩が哪吒の抱っこを断りきれない理由のひとつでもあった。ふくふくの柔らかい足に怪我をさせたくないのだ。
「お教室行く?哪吒」
 一応聞いてみるが、予想通り首を振る。哪吒を抱っこしたまま園児をお迎えする楊戩の姿は毎朝の恒例になっていた。

 次に来たのは遠目でも目立つ煌びやかな女性に連れられたドス黒いオーラの子供、妲己と王天君だ。
 王天君は年長組で、太公望の受け持ちだが朝の預かり保育では楊戩が面倒を見ている。非常に聡(さと)く、ワガママも言わない為とても先生受けの良い園児である。しかしその観察眼は時に鋭すぎて、大人でもドキリとさせられる瞬間があり、気が抜けない。
「おはようございます、妲己さん、王天君」
「おはようございます先生ん♡」
「おはようございます」
 妲己は目立つ容姿に派手な服装をしているが、バリバリのキャリアウーマンである。簡単に別れの挨拶を済まして、颯爽と出勤して行った。
「さ、お教室に行こうか」
 本日の預かり保育はこの3人だけなので、楊戩は教室へ向かった。


 ***


「楊戩、黄さんから連絡があってのう、天祥が熱で休むそうじゃ」
「わかりました」
 教室にやってきた太公望は哪吒を抱っこ紐で抱っこしたまま雷震子の着替えを手伝っている楊戩に呆れた。
「わしは哪吒が自分の足で立っておる姿を見た事が無い気がするのじゃが」
「いいじゃないですか、スキンシップは健やかな成長に欠かせないんですよ、ケチケチするものでもなし」
「お主、とうとう開き直りおったな」
「だって哪吒は両親に甘えられる時間が少ないんですよ」
「一児童の家庭環境にまで踏み込むのでは無い」
 プイッとそっぽを向く楊戩にため息を吐いて、太公望はそろそろ他の園児も通園してくる時間だとお迎えに行った。
「ひとりできれたぜー!」
「凄いね、姫発お兄ちゃんが見たらビックリするよ」
「おう!ちょろいもんよ!」
 大人気の戦隊モノのシャツに着替えた雷震子は自慢げに胸を張り、何やら必殺技のようなポーズを取って遊んでいる。王天君は静かに絵を描いて遊んでいたが、外が騒がしくなってきたのを見て、そろそろオレは年長クラスに行く。と立ち上がった。
「よーぜん先生、そのだっこひも、しぶつ?」
「えっ」
「しょたこん。ぺどふぇりあ」
 衝撃で声の出せない楊戩を放って王天君はクレヨンを棚に片付けると颯爽と出て行ってしまった。


 ***


 お昼寝の時間になり、寝付きの悪い哪吒がようやく眠ったのを確認すると楊戩は慎重に慎重に掴まれた服の裾を小さな手から外し、職員室へ戻る。肩を回しながらデスクに着くと、聞仲に「随分と肩が凝っているようだな」と声をかけられたが笑顔で「まあ」と返した。
 開き直ってる…とその場にいた職員全員が思ったが、もはや口を出すだけ無駄なようだ。しかし隣の席の嬋玉が呆れたように呟く。
「いくらあの子が小柄だからって、1日中ぶら下げてたらヘルニアになるわよ」
「ぶら下げるって言い方はやめてくださいよ」
「あの子、自分の足で立てるの?」
 朝も師叔に同じことを言われたな、と楊戩は遠い目をした。
「……さあ、多分」


 ***


 遊びの時間になると、雷震子は率先して運動場に飛び出して行く。スクーターや竹馬などの乗り物が大好きで、正義のヒーローごっこをしては泥だらけになるのがいつもの流れだ。
 絵を描いている子や積み木で遊んでいる子もいる中、哪吒はひとり教室の隅でただぼんやりと座っている。
「…ようぜん」
 他の子にせがまれて絵本を読み聞かせている所だった楊戩は小さく呼ばれたのに気付いたが、軽く返事をするだけに済ます。
「ようぜん」
「哪吒、順番だから待ってね」
 それか一緒に絵本見よう、こっちにおいで、と呼んでみる。哪吒が自らの足で歩いて来るのか確認したくなったのだ。よくよく考えると、楊戩も哪吒の歩く姿をほとんど見ていない事に気が付いた。
 しかし、楊戩の膝の上には他の園児が座っている。哪吒はそれを見て、立ち上がるどころか床にへばりつくように倒れたかと思うと、静かに震えながらえぐえぐと泣き出してしまった。
「わぁ哪吒っ!」
 ここで他の子よりも優先してしまうとまたワガママを加速させてしまうとは思うのだが、いやだいやだと大きな声を上げるわけでもなく、悲しみを噛み殺すように泣かれるとどうにも弱い。
 膝の上にいた児童を下ろし、床に顔を押しつけべしょべしょになって泣く哪吒を抱き上げた。
「そんなに泣かないでよ、ほら」
 結局、その後は哪吒を首に巻きつけたまま働く楊戩の姿が確認されたのであった。


 ***


 園児たちが帰って行く中、哪吒は延長保育組なのでずっと楊戩の背中に抱っこ紐でくっついている。部屋の掃除をする間も、日誌を書く間も。
「まるでコアラの赤ちゃんじゃのう」
 笹でも持つか?と話しかける太公望にはチラリとも視線を投げかけず完全に無視である。
「順番や待つことを教えようと思ったんですけど、負けました」
「まあ成長のスピードは人それぞれじゃ。他の子に乱暴する訳でもないなら、甘えたいウチは甘えさせても良いかもしれんのう」
 幸いな事に、他の園児に悪影響も無さそうだ。それどころか、哪吒が泣いていたら誰かが楊戩を呼びに来るほど園児たちの中でも公認の優遇となりつつある。
 哪吒は3歳からここに通い始め、もうすぐ4歳のハズだが、その体は非常に小さく、言葉も遅かった。感情の起伏もほとんど無い。それが楊戩にだけは興味を示し、後回しにされると泣くほどに自我を表しただけでも成長しているのである。
 他の園児たちも、小柄でほとんど喋らない哪吒を自分より小さい子だと認識しているのでワガママを言っても怒らず、泣いていたら優しくするのかもしれない。
「そうですねぇ、むしろ、他の子の成長にひと役買っているくらいの気がします」
「うむ、一理ある」
 忙しい両親、寮生活をしている歳の離れた2人の兄。朝晩は叔父叔母の家に預けられ、昼間は幼稚園。従兄弟の太乙が哪吒を溺愛しまくっていることは救いだと思うが、彼も高校生になって強制的に部活に入らされてしまった。
「哪吒、先生とお喋りしないかい?」
「……」
 言葉は理解しているようだが、ほとんど喋りもしない。絵本もごっこ遊びも歌もお絵描きも興味が無さそうで、楊戩はこの子が何をすれば喜ぶのか頭を悩ませた。


 ***


 時は流れ……

 そんな哪吒たちも小学生になる為、幼稚園を離れる日がやってきた。結局、無口で無感動な性格は変わらなかったが、哪吒は武道に興味を示したようで、空手や柔道のこども教室に通っている。それを聞いた他の先生たちは「あの子、立てるのか」と本気で驚いていた。
 卒園式で一番寂しがっていたのは楊戩で、哪吒に折り紙で作った花をプレゼントされて裏で本気で泣いたとか。
「ようぜん」
「うん?」
 明日からここに来ない事を理解しているのか、まだよく分かっていないのか、いつものように抱っこをせがむ。
「今日はお母さんたちと一緒にもう帰るんだよ」
「先生、大変お世話になりました」
 大人しく大好きな殷氏と手を繋いで哪吒は歩き出した。その背中を見送って、楊戩はまたホロリと泣く。小さな頃の思い出など、きっとすぐ忘れてしまうのだろう。
「やれやれ、寂しくなるのう」
「ちょうど抱っこ紐がダメになってしまった所だったんですよ」
「まだ使っておったのか」
「もう使いませんよ」
 将来、有名な武道家となった哪吒が楊戩の元へ押しかけ、2人の関係は再始動するわけだが、それはまた別のお話。

▼Xヨナネタまとめ ①

準備中

▼Xヨナネタまとめ ②

準備中




ノンカプ・オールキャラ

▼【乾元山師弟】ロボット工学三原則

 *蓬莱島に普通に太公望がいます

 ロボット工学三原則とは
 ・人間を傷付けない
 ・人間の命令に従う
 ・自分を守る
 という、三つのルールのこと(某SF小説から生まれた言葉)


 蓬莱島では仙道同士の揉め事が無くならず、派手に争った哪吒は右腕が吹き飛び、太乙の修理を受けている。

「のう太乙真人よ、哪吒はもう少し自分を大切にする事はできんのか?こやつの強さがあれば仙道同士の諍(いさか)いなど、無傷で制圧する事も容易(たやす)かろう」
「うーん、壊れたら直せばいいもんだと思ってるから…そもそも攻撃を避けたり、防いだりするって考えがないんだよ」
 それを教えるのが師匠の仕事だろうがと図星を刺されて太乙は返す言葉に詰まった。誤魔化すように工具を動かす手元に集中して、ポツリと漏らす。
「私自身は戦闘に向いてないから、実戦における攻防の指導は出来ないんだよ…」
「うーむ、それは確かにそうじゃのう」
 雷震子は体に替えがきかないので哪吒よりは防御も気にしているものの、その猪突猛進さはどっこいどっこいである。道徳や黄飛虎、聞仲がいれば良き師となってくれただろうが、今やそれは望めない。
「そうじゃ、金吒木吒がおるではないか」
「兄貴風を吹かすから気に入らないみたいで、すぐ反抗的な態度を取るんだよ…」
「兄貴風もなにも、実際に兄ではないか」
 哪吒が比較的素直に言うことを聞く相手は、自分と同等の強さを持つ楊戩か、弟分として可愛がっている天祥くらいのものである。太公望の言う事なら聞きそうだが、そもそも太公望が人にああしろ、こうしろと指図するタイプではない。太乙もその役目を太公望に押し付ける気はなかった。
「人の言うことは聞かん、自分を守りもせん、すぐ人に武器を向ける…あやつはこの世で一番、らしくない人造人間であろうな」
「なんだいそれ、三原則の話?」
「うむ」
「私は、ロボットを作ったつもりはないよ」
 だから、その三原則に添わない子である事は当然なのだと太乙は笑う。
「でも太公望、ひとつだけ違うよ。哪吒は人に武器を向けるけど、傷付けたりしない」
「…確かに、そうであったな」
 修理を終えて、太乙は近くの椅子に腰掛けた。ふう、とひと息つき、眠る哪吒の額にかかる髪を指でかき分ける。
「大きな戦いが済んだとはいえ、いつ何があるかなんて分からない。もし私がいなくなったとしても、この子がひとりで生きていけるように…指導者を探さないとね」
「そうだのう、保険は大事じゃ」
 それが大切なものであるほど、保険をかけておかなければならない。
「本当は宝貝の修理も自分で出来るように指導したいんだけど、絶対に覚えてくれないだろうから、それは他の仙道に託すよ」
 壊れた宝貝を自らで修理する哪吒など確かに想像できず、太公望は笑った。
「ちょうど良い機会じゃ、楊戩に新たな指導制度を立てさせようかの」
「それって、私は宝貝周りの指導を任される流れなんじゃ無いの?」
「さてのう」
 元崑崙十二仙なのだから、それくらいせよと言い残して太公望はラボを出ていった。


 ーーー後日


「戦闘の指導ですか?」
「そうじゃ、主に哪吒、雷震子にな」
 ああ、あの猪突猛進コンビ…と楊戩はゲンナリする。しかし、戦い方を覚えれば、仲裁の度に蓬莱島側に出る甚大な損傷被害も抑えられるやもと考えた。
「あの2人以外にも、ほとんどの仙道たちは基本的に宝貝に頼りすぎておる。改めて修行の場を設けるのは、平和ボケで退屈しておる者たちの良い気分転換にもなるであろう」
「そうですね、技(ぎ)を磨くのは良いことですし」
 他にも宝貝についての知識や仙道としての精神論、人間界にまつわる勉学など、すべきことはいくらでもある。楊戩も、蓬莱島の仙道たちに何の仕事も与えないまま自身は職務に追われてばかりで、実はそういった部分が気になってはいたのだ。修行すべき道があれば、今より争いの頻度も下がる事だろう。
「分かりました、それぞれの知や技に長けた者を指導者に立て、新たな師弟制度を作りましょう」
「お主ならそう言うと思って丸投げしに来たのじゃ」
「そんな所だろうと思いましたよ」
 とはいえ崑崙十二仙のうち十仙、金鰲島の優秀な仙人たちもほとんどが神界へ移ってしまった今、以前の崑崙のように対少人数の指導は難しい。
「人間界の学校のような形にしましょうか、宝貝学は太乙真人さまにお任せするとして…」
 さっそく楊戩は張奎に急ぎの仕事を任せて、指導制度の枠組みを考え始めた。こうして蓬莱島では新たに何人かの仙道がコーチとなり、教えを通して関わるうちに少しずつ崑崙と金鰲の蟠(わだかま)りも打ち解けていったとか。

▼【乾元山師弟】師の恩は海よりも深い?

自分で考え、自分で攻撃する宝具。
「太乙真人」
また何かやらかしたのか、哪吒はボロボロに故障した腕を修理されながら珍しく太乙の名を呼んだ。 「なんだい」
キュイーン、ガリガリ、と機械音を響かせながら太乙はにっこりと微笑んだ。
「オレは宝具人間だ。じゃあ、オレは生き物か?モノか?」
「宝具人間じゃ不満かい?」
「生き物か、モノかと聞いている」
また珍しいことを。と太乙は苦笑する。
答えなど当然決まっていたが、作業用のゴーグル越しに哪吒の不安げな視線をひしひしと感じ、言葉を選びながら口を開いた。
「そりゃ生き物さ。意思があって、温かくて」
太乙がぺたりと手を握ると気持ち悪いと払われた。
「こうやってすぐ怒るし。ね、そんなの、モノなわけがないよ」
「オレを作ろうと太乙が言い出した時のことを聞いた」
「あー…そりゃ、確かに最初は思いつきさ。こんな便利なモノ、作れたらなぁなんて」
「やっぱりモノなんじゃないか」
「最初はね?」
ほら、できた。と綺麗になった腕に異常がないかグルリと見回し、額の汗を拭う。
「作ってるうちに、これはただの道具作りじゃないって感じてたよ。君が哪吒として人間界に生まれ落ちた時だって、本当に嬉しかった。だから、作り直す時だって…記憶もそのままにしたし、姿形も、君がこの世に自然に生み出された時のもののままにしたんだ」
まあ、そのせいでお父さんとは不仲みたいだけどね?と哪吒の顔を覗き込んで太乙はニヤリとした。
「哪吒は、私のこと親だって思ってくれてる?」
「キサマは…オレを作った奴だ」
「壊れたらいくらだって直すさ」
「親は……」
すごく考えたあと、哪吒は太乙から目を離して唇を噛んだ。何かを思い出しているのか、気まずそうな、不安そうな瞳が不安定に揺らぐ。
「母上、だけだ」
「それは仕方ないね」
少し残念そうな太乙の声に哪吒は珍しく慌てた様子でパッと振り返った。
「太乙真人は……」
哪吒は太乙風船を潰した時の気持ちや、毎回修理されている時の気持ち、洞府に帰ってくる時の気持ちを考えて…自分の心を偽ることなく、口を開いた。
「帰る場所だ」
「……私こそ、場所だなんて、モノじゃないか」
そう言いつつ、太乙は満面の笑みを浮かべていた。
「うるさい、嬉しそうにするな」
ほら、できたよ、また思う存分戦っておいで。と哪吒を立たせて、太乙は笑顔のままその頭を撫でた。

――いつでも帰ってきていいんだよ。

▼【乾元山師弟】好きの安売り

「じゃあ、太公望は?」
何度目かの問いかけ。
「あいつも強い」
もう何度目にもなる返答。
「じゃあ、好きなの?」
これも何度も聞かれた質問。
「強いやつは好きだ」
哪吒もずっと同じ答えを返し続ける。
「じゃあ雷震子は?」
我慢ならずに哪吒は料理を口に運んでいたスプーンを机に叩きつけた。
「仙界中の仙道の名を挙げ続けるつもりか」
そして、もういらん。と怒って立ち上がる。
「ごめんごめん!じゃあ私は!?私は!?」
鬱陶しそうに哪吒は振り返る。
太乙は時々、こんな風に哪吒を問い詰めては自分の事が好きかと問うてくるのだ。
「嫌いだ」
「私だって強いじゃないか!私の作った宝具が強いから哪吒が強い…つまり哪吒の強さは私の強さだよ!」
「なら十分だろう、俺は強いやつが好きだ。キサマが自分で自分を強いと思っているなら、それが答えだ」
鬱陶しいやつめ。と呟いて哪吒は外へ出る。
「だって、イマイチ哪吒が私を尊敬してる感じがしないんだもん」
「殺されたいのか」
「ほら!またそういう…」
乾坤拳を構えた哪吒に思わず太乙は衝撃に備えたが、いつまで経っても辺りは静まり返っていた。
「…哪吒?」
乾坤拳を構えたまま固まっている哪吒に太乙が声をかけると、ハッとしたように息を飲んでまた背を向けて飛んでいく。
しつこく着いてくる太乙に目を向けることなく、哪吒は不機嫌そうに呟いた。
「なぜ九竜神火罩を使わん」
「いや、この近さで間に合わないと思って…」
哪吒は太乙風船を割った時の気持ちを無意識に思い出していた。

ーーーどういうわけか、太乙真人が増幅したあの時。
初めは、本当に本人を殺してしまったと思った。
その時オレの心の中に芽生えた気持ちは、なんだったのか。
自分を修理する奴がいなくなることが困るから焦ったのか?ーーー

哪吒はあの時、そこまで考える前に、もっと条件反射的に後悔していた。
太乙を殺してしまった。太乙が死んだ。
その事がただ悲しくて、背筋がゾッと凍ったのだ。
今では、本当は哪吒もその事に気付いている。
「…キサマが本当に封神されたら、誰がオレを直す」
「まあ、今の哪吒を壊せる仙人なんて、なかなかいないと思うけどね」
哪吒の言葉にようやく満足したのか、太乙はそれ以上ついては来なかった。


「天祥はこれから強くなるから好きだぞ」
「どうしたの?急に」
結局みんなのことが大好きな哪吒なのであった。

▼【オールキャラ】小冬日和

「のう、哪吒よ」
 ふと空を見上げると赤い髪が見えた。ただそれだけなのだが、なんとなく呼び止めてみる。
「なんだ」
 不機嫌そうに見えるがそうではない。これがこやつの常なのだ。気にしていると仕方がない。
「お主……寒くないのか?いつもそんな薄着で」
 近くまで降りてきたその腹をぺちりと叩いてみる。するとヒヤリとした感触が手袋越しの手のひらに残った。
「冷え切っておるではないか」
 だが哪吒は純粋に不思議そうな顔をする。
「寒いはずがない、俺は宝貝人間だ」
 その返事に太乙のことを少し思い出したが……まあ、なにも言うまい。やつは、哪吒が自分のことを「宝貝人間だから」と称するのを妙に嫌がるのだ。全く親とは勝手なものよ。
「寒くないならまあいいが…」
 見ているだけでこっちが寒くなるわい。そう言ってもこやつは聞きもしないだろうがの。ぼんやりとそんなことを考えていると哪吒がわしの隣に腰掛けた。おや、珍しいこともあるものだのう。
「…ははーんお主、さては太乙と喧嘩でもしたな?」
 カマをかけただけだが、どうも図星だったようでキッと睨まれた。その反応にまだまだ子供だな、と思いつつわしも腰を落ち着ける。こうして哪吒とじっくり2人で話すことなど中々ないのだし、たまにはこういうのもいいだろう。
「まあ太乙の事は置いておいて、雷震子や天祥とは仲良くやっておるのか?」
 隣に座ったクセに話す気は無いのか、哪吒は返事どころかこちらを見ようともしない。まったく、この無愛想はいったい何を考えているのやら。
「わしにはまだまだお主の考えが読めんよ」
 清々しいほどに無視を決め込む哪吒の横顔をぼんやりと見つめる。

 すると背後から影が伸びてきて声をかけられた。
「太公望師叔」
「な、なんじゃ楊戩、わしはサボっているわけではないぞ!」
 脊髄反射でそう口にすると、楊戩はくすくすと笑う。
「別に仕事をしろと責めに来たわけではありませんよ。わざわざそんなことのためにこの僕が動くとでも?」
「あ、相変わらず嫌味なやつだのぉ」
 哪吒と反対側のわしの隣に座って楊戩は空を見上げた。
「こんな天気のいい日に仕事なんて、してられませんからね」

 悪戯に笑う楊戩の言葉に同意しつつわしも空を見上げる。すると見覚えのある影が丁度真上を通り過ぎた。
「おお、雷震子ではないか」
 思わず声を掛けると、心なしか大きくなった気のする6枚の翼を器用に操り、雷震子は振り返る。
「なんだ太公望!こんなとこで何やってんだ?」
 呼び止めたのはわしだが、当然のように降り立ち、もうすっかり混ざるつもりの雷震子に苦笑が漏れる。
「どこかへ用事では無かったのか?」
「いや、雲中子のとこから逃げて来ただけだ!」
 どうやら、翼が大きくなった気がしたのは気のせいでは無かったらしい。
「相変わらずのようですね、雲中子様も」
 くすくすと笑う楊戩に雷震子は笑い事じゃねえと頭を抱えた。


 ……どれくらい経ったか、そんな4人でごろごろしていると、不意に楊戩が口を開いた。
「そろそろ戻らないと白鶴に怒られてしまいます」
「なんだお主、本当に仕事を抜け出して来たのか?それではいつものわしと変わらんではないか」
 空を見上げたまま返すと楊戩は静かに起き上がる。
「そうですね。だって、こんなにいい天気なんですから」
 またそれか、と呆れつつ目を閉じた。うつらうつらと眠たくなってきたのだ。隣を見やると哪吒と雷震子はすっかり寝付いている。
「こんな所で寝て、3人揃って風邪なんてやめてくださいよ?」
「それは嫌だのう、なにせ雲中子はまともな薬を出さん」
 魘されている雷震子を見てげんなりと答えれば楊戩は哮天犬に跨って笑った。
「でも、雷震子がそんな格好でいつも元気なのは雲中子様のおかげかもしれませんよ?」
 もしそうだとして、寒くないとしてもズボンのみで生活はしたくないのう。そんなことを思いながらも眠気には逆らえず、わしは黙ったまま再び目を閉じた。


「ぎゃーーーっ!」
「なっ、何事じゃ!?」
 突然の悲鳴に飛び起きると何者かに背後から肩を掴まれた。
「ら、雷震子?」
 目の前には殺気立った雷震子。なら、今わしの後ろに隠れておるのは……。
「雲中子ではないか、お主……何をやっておる」
「何もしてないよ!雷震子を迎えに来ただけ!」
 そういえばわしはどれくらい寝ていたのか、もう日は暮れかかっていた。
「確かにもう帰る時間だのう」
「嫌だっ!俺様は絶対に洞府には帰んねぇぞ!」
「どうしてそんなに怒ってるのさ」
「テメェぬけぬけとよくもっ!!」
 火に油を注ぐ雲中子もどうかとは思うが、こやつにしては珍しく”迎えに来て”くれたのだから(真偽はどうあれ)それが謝罪にはならないのかの。
「そもそも、なんで雷震子はそんなに怒っておるのだ」
 そこでふと、わしは疑問を口にしてみた。
「まあ、雲中子の実験の怪しさは確かに恐ろしいが、結局お主はこうして強くなっておるのだしの」
 背後で雲中子が騒がしく同意しているが、それは無視。雷震子は少し考えたあと、すっかり戦意を失ったようで肩を落とし答えた。
「まあ、確かにそうなんだけどよ。いっつもいっつも騙される形で改造されるのが気に喰わねぇっつーか」
 結果はとにかく置いておいてそこが嫌なんだよ、と口を尖らせる。
「……だそうだが、雲中子?」
「だって、騙される方が悪いって言うか……」
「発雷!!」


 なんとも騒がしい師弟が騒がしく帰って行き、辺りはまた静かになった。あれだけうるさかったのにも関わらず哪吒は未だ爆睡している。珍しく無防備な事だ。夕焼けが綺麗だが、暗くなる前に帰らせんといかんのう。
「哪吒、もう洞府に戻るのだぞ」
 冷えている肩を揺さぶりながら声を掛けると哪吒は薄っすらと目を開けた。
「…どこだ、ここは」
「お主は寝起きでも変わらぬテンションだの」
 しばらくぼんやりしていたが、すぐに状況を思い出したようで哪吒は眉を顰める。
「俺、帰らない」
「また子どものようなことを……」
 やっと雷震子が帰ったと思ったら、今度はこっちかい。楊戩のように潔く帰路についてくれんもんかの。
「あれ、お師匠様ー?」
 遠くから呼ばれてそちらに目を向けると武吉と天祥がスープーに乗って現れた。
「あ!哪吒にーちゃん!」
「天祥か」
 天祥と哪吒はすっかり仲良しだ。太乙がよく微笑ましげに、時に妬みを含めつつその様子を語っているのを思い出す。
「僕たち今から帰るところなんですけど、こんな所でお二人は何をされてるんですか?」
「わしらも帰るところじゃ」
 丁度いい、天祥の前ではさすがに「帰りたくない」などと我儘を言ったりしないだろう。哪吒なりに天祥の前ではかっこいい兄、であろうとしておるのだからな。
「のう、哪吒」
 話を振るとそんなわしの魂胆が見えたのか、元々の性格か、キッと睨まれたがもちろん気にしない。諦めたようにコクリと頷く哪吒を見て天祥に感謝する。
「では気をつけて帰れよ、二人とも」
「はーい!」
「ご主人、あとで迎えに来るッスよ」
 二人を乗せたスープーが小さくなり、やがてその姿が見えなくなると哪吒はふわりと浮かび上がった。
「帰る」
「おお、それが良い」
「哪吒ーっ!」
 気が変わる前にさっさと帰そうとしたわしの言葉を遮って親バカの声が飛び込んで来た。
「たっ、太乙…」
 またややこしくなるのではないかと太乙を睨みつける。余計なことを言うでないぞ!
「哪吒、冬は日が暮れるのが早いんだから早く帰るように言っただろ!」
 わしなど見えていないかのように哪吒へ直行するこの親バカっぷりには毎度呆れさせられるわ。だが理不尽に怒鳴られても案外怒っていない様子の哪吒に安心する。どうやら、すんなり帰ってくれそうだの。
「さあ、帰るぞ!」
 今まさに帰ろうとしておったのだが、まあ子を心配する親とはこういうものなのか。頭ごなしに叱られても無表情で黙ったままの哪吒の心は読めん。だが、怒らない、というのが全てを現しているのだろう。やはり師弟なのだな。


 黄巾力士と哪吒が遠ざかり、ようやくのんびりできると思ったら二人を送り終えたスープーが戻ってきた。
「さ、ご主人!お待たせしたッス!帰るッスよ!」
「ご苦労じゃのスープー」
慣れた背に跨り、労いの言葉を口にする。
「これくらいなんてことないッス!」
頬を撫でる風は冷たかったが、なんとなく気分が良かった。

▼【オールキャラ】お笑い5人組、再集合

「俺はこいつらとは違う」
「おいこら哪吒!テメー何ひとりだけさっさと抜けようとしてんだ!」
「ほかの皆さんはとにかく、僕はお笑いキャラなんかじゃないですよ。断じて」
「ちょっと待つさ、俺っちだっていつそんな笑われるような事したってのさ」
「ええい、少し集めるとすーぐ!そうやってぺちゃくちゃとうるさいからお主らはお笑いなどと言われるのじゃ!それに巻き込まれておるわしの身にもなってみんか!」
「どうして師叔が被害者なんですか。師叔だけは満場一致でお笑いキャラですよ」
 人間界で暴れた罰(象レースの件)として『お笑い5人組』と張り紙された部屋に放り込まれた太公望たちは案の定ひとときも黙らずギャアギャアと罵りあっている。
「まったく、わかりましたよ。このままじゃ何も変わらないじゃないですか。僕はこれより一切話しませんから。あなた達と一緒にされたくないんで」
 ピシャリと言い放った楊戩はそれっきりツーンとそっぽを向いて自分は部外者だとアピールしだした。
「おい、それで勝ったつもりかよ!いつだってお高く留まってりゃイケメン枠でいられると思いやがって!」
 妲己変化中の楊戩の様子をプラカードのように持って噛み付く雷震子にもクールに微笑みで返す。
「うぎーーーっ!」
 苛立って飛びかかってきた雷震子を楊戩がヒョイと避けると、その先にいた太公望にヒットした。
「ぎゃーっ!やめい、わしに噛み付くでない!牙が刺さる!」
「丁度いいところに腕があったからだよ!テメーがどんくさいんだろうが!」
「血が出たではないか!」
「おい、血が飛んできたぞ」
「だっはっはっは!」
 天化は早々に諦めて、むしろこの状況を楽しんでいるようで、ゲラゲラ笑いながらそんな大混乱を見守っている。


***


「いつになったら出られるんだ、この部屋」
 しばらくの大騒ぎの末にようやく全員が落ち着き出した頃、珍しく怒ったりせず、冷静な哪吒が開かない扉の取っ手をクイクイと触っている。
 笑い疲れて、自身の腕を枕にして寝転がっていた天化はぼんやりと返事をする。
「さあ、俺っちたちの中の誰かがブチ切れてその扉を壊すまでじゃないんさ?」
「そんなことをしたら、更に罰を受けるだけだ」
「なんだ、よくわかってるんさ宝具人間」
 哪吒には雷震子よりも自分の方が大人でしっかりしているというプライドがある。なので、こうして纏められた時には非常に冷静になるのだった。

 そんな時、部屋に元始天尊の声が響いた。
『お主ら、よーく反省しておるか?さてここで質問じゃ』
「元始天尊さま?」
 その声に瞑想していた楊戩も思わず反応する。未だにブチブチと言い争っていた太公望と雷震子もピタリと動きを止めて天井に取り付けられているスピーカーを見上げた。
『お笑い5人組だと纏められるのと、二度と会えないのでは、どちらが良いかな?ふぉっふぉっ』
「あっ、ズリーぞ!そういう話じゃねぇだろうが!」
「何故その2択しかない」
 雷震子と哪吒、2人が同時に文句をつけるとスピーカーからは剽軽な笑い声が漏れる。
『良いではないか、人生は選択の連続じゃぞ』
「適当を言って話を逸らすのは年寄りの悪い癖じゃ」
「暇つぶしにこんなくだらない観察をするのも悪趣味さ」
「頭の形は変だしな」
「もう隠居した方がいいんじゃねーか。封神台にでも」
 立て続けに否定されて元始天尊は大人げなく声を荒らげた。
『ええいうるさい若造ども!素直に青臭く悩まんかい!プライドか友情か!』
「考えるまでもありませんね」
 スッと立ち上がり、楊戩は扉へ向かう。すると他の4人も示し合わせたように立ち上がり、誰が合図するでもなく全員同時に扉を破壊した。
「くだらん」
「な、なんか今の俺様、カッコよくねぇ…!?」
「僕は修行がありますので」
「じゃ、俺っちは帰るさ。ま、結構面白かったさ!」
 残された太公望は、しばらくしてやってきた四不象に拾われてまた気まぐれな旅へ出かけたとか。


***


「あんな所で何してたッスか?」
「んー…なかなか、楽しい時間を過ごしておったぞ」
 次の約束などない。だが、何かがあれば自然と集まる。元始天尊が気まぐれにかき回そうとしてみた若き道士たちは、その想像よりも何倍も、何十倍も硬い絆で結ばれているようだった。

▼【オールキャラ】それぞれのバレンタイン

○太公望&楊戩

「教主様ぁーっ!!」「楊戩さまっ!」
「私のチョコ受け取ってください!」
「いやーっ私のを!」「どきなさいよブス!」
「教主様っ開けてください!」
「いらっしゃるのはわかってるのですよー!」

「いやぁ、美しさは罪ですね、太公望師叔…」
「ダアホ!早くなんとかせんかっ!」
全くどこから湧いて来たのか。
仙人界にいる女仙人は皆集まったのではないかというほどの大群が、現教主である楊戩の部屋に殺到している。
その理由はもちろん、バレンタインのチョコを渡すため。
こんな時、自他ともに認める美しい天才はモテないわけにはいかなかった。

だが……

「ふふふ、師叔。そんなわけで僕は今日この部屋から出られませんので」
そんな楊戩もさすがに女たちが罵り合い自分を呼びまくるというこの状況には尻込みもするようで、ドヤ顔を決めながら引きこもりを決心したらしい。
「なに格好つけておる、さっさと片付けて来んか!」
四不象たちに「執務室から楊戩が出て来ない」と相談されて仕方なく連れ出しに来た太公望は容赦無く扉を開こうとする。
「わあ!ダメです師叔!」
必死で押さえつけて止める楊戩。太公望は呆れたように肩を竦めると扉から手を離した。
「あやつら、こんな日くらいしかお主の元に来る勇気を持てぬのだ。少しくらい相手をしてやっても罰は当たらんと思うがなぁ?」
ああ可哀想に。とさめざめ泣き真似をする太公望の背を苦々しげに眺めて楊戩はため息をつく。
「わかってはいるのですよ。それもこれも全て僕があまりにも完璧だから…でも、怖いものは怖いんですから仕方ないです」
「さりげなくナルシスト発言をかますのうお主も……」
すると突然の轟音のあと、扉の向こうが静かになった。

そしてしとやかなノックが響く。
「太公望さま、ここにいらっしゃるんでしょう?」
「げっ!!」
今度は太公望が焦る番だった。ビーナスである。
「な、何の用だ?」
「今日はバレンタインでしょう?私…あなたのためにチョコを作って来ましたの」
開けてくださいまし、とさらにノック。太公望は静かに空間を作り、早々に逃げようとした。
「太公望師叔、彼女の気持ちを受け取って差し上げないのですか?」
立場逆転と楊戩は愉快そうだ。ムッとしつつも太公望は逃げ出した。
「ええいやかましい、お主こそ開き直ったくせに!わしかて怖いもんは怖いんじゃ!」



○飛虎&聞仲

「飛虎」
「お、聞仲か!」
「妙に甘い匂いがするな」
ここに着いてから気になっていた甘い香り。キョロキョロと原因を探すと机の上に菓子が置いてあった。
「あ、これか?さっきもらったんだ。今日はバレンタインだからってよ」
バレンタイン。そういえばそうだったなと思い出す。
「天化んとこ行ってオメーんとこにも行くっつってたから、入れ違いになっちまったみてぇだな!」
豪快に笑う飛虎につられて笑みをこぼす。
「平和だな」
「ん?何だよ急に」
きっとすぐここに姿を表すであろう黒髪の美女を待つ間、甘い香りに包まれながら2人でのんびりと過ごした。



○太乙&哪吒

「哪吒、今日が何の日か知ってる?」
「…知らん」
予想通りの返事につい笑いながら私は哪吒にバレンタインを教えてあげた。
「バレンタインっていってね、好きな人に好きって伝えたり、日頃の感謝を伝えたりする日だよ。チョコや花を贈ることもあるんだよ」
そしてラボに置いておいた蓮の花を持って来て哪吒に渡す。
「はい。いつもありがとね哪吒」
「………」
でも哪吒はきっとすぐに枯らしてしまうから、またそれをそっと受け取って花瓶に入れる。
「ここに置いておくから、可愛がってね」
首を傾げつつ頷いた哪吒に微笑みかけて窓際に花瓶を置いた。
「太乙真人」
「んー?」
「母上の所に行ってくる」
言うと思った。だから快く了承する。
「遅くならないうちに帰るんだよ」
その夕方、帰って来て早々少し照れ隠し気味に「余ったから」と桃をくれた哪吒が可愛すぎてついつい甘やかしてしまう私なのだった。
ホワイトデーには新しい宝貝をあげる、と。



○雲中子&雷震子

「雷震子、周に行っておいで」
突然そう雲中子に言いつけられたが、訳がわからず一瞬考え込む。
「……なんで?いや、行くけど」
しばらく小兄にもあってねぇし、行けと言われたなら喜んで行く。
でもどうして突然そんなことを言い出すのかは気になるっての。
「今日はバレンタインだからね。いつも実験台になってくれてるお礼に里帰りを許してあげる」
無理やり実験台にしておいてなにを言うかこいつはっ!
ってか、そうか今日はバレンタインかよ……すっかり忘れてた。雲中子になんにも……
いやいや!こいつに対して「日頃のお礼」とか悪い意味でしかねーから! 「雷震子?なーに1人で百面相してるのさ?」
「うっ、うっせぇ!」
気恥ずかしくなって勢いよく洞府を飛び出した。
どうせホワイトデーには「お返しちょうだい」なんて言われてまた実験台にされるんだ。
…とか思いつつもお土産は何にしようか、なんてつい考えてしまうオレ様は、きっとどうかしてるんだ。



○姫発&邑姜

「プリンちゃーん!」
今日もいつも通り(周公旦の胃以外は)平和な周に響き渡る下品な声。
その声の主、武王姫発は相も変わらず女の子を追いかけ、借金三昧。
「プリンッちゃーーん!」
「ぎゃーーっ!!来るんじゃないわよこのど変態!あんたなんか私の好みの真反対に位置する男なのよー!!」
そんなやりとりももはやいつも通り。
……だが今日の姫発は一味違う。何故なら、今日が『バレンタイン』だからだ。
「頼むよーっ、チョコくれってー!」
姫発の「何が何でもチョコを手にいれてやる」というこの気合は鬼気迫り過ぎている。
「来ないでー!!」
「いやぁーーっ!!」
おかげで怖がった女の子たちはいつも以上に逃げ惑い、街は大混乱。騒ぎを聞きつけた周公旦は更に胃薬を所望する羽目に。
「小兄様…お仕事をなさってください…」
胃痛を抑えながらなんとか捕まえてそう訴えるが、当然おとなしく執務に戻るような姫発ではない。
「なんだよ旦!今日ぐらいはいいじゃねぇか!バレンタインだぞ!?」
悪びれもせず言い放つ姫発に周公旦のストレス値が限界突破する。
「今日『ぐらいは』ですって?毎日毎日遊び呆けているくせに…何をおっしゃるのです!!あ、あいたたた…」
つい叫んだ周公旦は胃の痛みに蹲る。
「ほら旦、あんま怒ると胃に穴が開くぜ!」
更に爽やかに笑いながら走り去る姫発を憎々しげに睨みつけながら周公旦は涙目だ。
「だ、誰のせいだと…お待ちなさい小兄様…!」


「チクショー、こんだけ走り回って収穫ゼロかよ…」
午後に入っても姫発はまだひとつもチョコを貰えずにいた。
そのせいですっかり不貞腐れてしまっている。自分のその「チョコを寄越せ」という圧を抑えればもしくは可能性もあるものを。
「こうなったら無理やり捕まえて奪い取るしかねえな…一個ぐれぇ持ってんだろ」
もはや追い剥ぎ。発想が犯罪者である。さてどうやって無理やり奪い取るかだな。姫発はそんなことを考えながら草むらに横たわった。
「武王姫発」
すると頭上から声がした。この声は邑姜だ。
「なっ、なんだよ!また説教か!?」
慌てて体を起こした姫発の目前に何やら包みが差し出された。反射的に受け取ってから姫発は首を傾げる。
「…なんだよ?」
「チョコ」
「は?」
「チョコです」
「……!」
姫発は思わず立ち上がった。
「これで真面目に働いていただけますね。さあ」
だが邑姜の言葉は冷たかった。
「ひ、ひでぇ理由……」
落ち込む姫発を気にもしない邑姜。仕方ないと渋々、姫発は執務室へ戻って行った。
近頃ではこんな2人の様子を見かけることもそう珍しくはない。
「邑姜様は小兄様の良い薬ですね。あなたのおっしゃることなら小兄様も良くお聞きになる」
「あなたに甘えているのよ、旦」
「甘やかした覚えはないのですがね」
「あら、そうかしら……」
「何が言いたいのです?」
「いえ別に」
「……(そう言うならあなたこそ)」
「……(なんだかんだでいつも脱走を許してあげるくせに)」
自分の去った後の廊下でそんな会話がされているとは露知らず姫発は頭を抱え、書類にペンを走らせるのだった。

▼【色物三師弟】師弟交換

「もう限界だ!今日こそオレ様は出てくからな!」
「さすがに許せない……出て行きなさい」
「師父のダアホーーー!もう帰らねえさ!!」


【師弟交換】


 太乙に叱られて洞府を追い出された哪吒が行く宛もなくプラプラしていると向かいから雷震子が飛んできた。
「あれ、哪吒……」
 雷震子は雲中子に変な薬を盛られそうになり、慌てて逃げてきたおかげでゼエゼエと息が切れぎれだ。
「何してんだ?お前」
 それはこっちの台詞だ、そんな瀕死で。そう思いながらも哪吒は答えた。 「太乙に追い出された」
「はぁー!?あ、あの太乙さんにかよ!?」
 驚く雷震子を尻目に黙ってどこかへ飛んで行く哪吒を慌てて追いかけて横に並び、ワケを聞く。
「ラボを壊した」
「なんでまた……」
「おーい」
 すると下の方からなにやら声が聞こえてきた。2人が見下ろすと天化が黄巾力士に乗って手を振っている。
「俺っち家出してきたんさ、もう師父なんか嫌いなんさ」
 どっちかの洞府に泊まれないかと尋ねてくる天化に雷震子はそれ楽しそうだな!と瞳を輝かせた。
「いいじゃんそれ!オレ様も帰りたくねーし、今日はみんなで乾元山に泊まろうぜ」
 すると哪吒が眉を顰める。
「オレは帰らない」
「あれ、宝貝人間も喧嘩したんさ?」

 ――というわけで、師匠交換がここに決定した。

「いいか、雲中子の出したものにはくれぐれも気をつけるんだぞ!下手したらこんな風に羽が生えちまうかんな!それから……」
「もうわかったわかったさ!それより宝貝人間!師父は案外ズボラだから気をつけるさ、2人して日暮れまで遊んだりしちゃダメさ!」
「ム」
 長い長い話し合いの結果、雷震子は太乙、天化は雲中子、そして哪吒が道徳の元へ行くことになった。
「哪吒、おめーはオレ様になんか注意ねえの?」
「無い」
「あっそ……んじゃ、ま!行くとすっか!」
「よっしゃ!」


***


 そして日は暮れ、乾元山は金光洞……雷震子が着くと落ち着かない様子の太乙が空を見上げながらウロウロしていた。
「あ、な…!あれ、雷震…子?」
「よお太乙さん!」
 空を飛ぶ影に一瞬ハッとした太乙だったが、降り立った雷震子に戸惑う。何から言うべきか悩んでいると雷震子の方が先に口を開いた。
「哪吒は帰らねーってよ!オレ様も洞府に帰りたくねえからこっちに来させてもらったぜ、ま、迷惑なら適当にそこらで寝るから」
「え…あっいや、構わないよ!どうぞ入って」
 太乙はその言葉に少し放心していたが、すぐに洞府の扉を開いて雷震子を招き入れる。
「な、哪吒はどこに…まさか、雲中子の所…」
(追い出されたって言ってたけど、めちゃくちゃ心配されてんじゃねーか)
 雷震子はそんな哪吒を少し羨ましく感じた自分にゾッとした。
「道徳さんとこ!」
「ええっ!じゃあもしかして天化くんは……」


 ――時を同じくして、終南山は玉柱洞……

「ちわー」
「おや天化くんじゃないか、珍しいねえ」
 恐る恐る天化が洞府を覗くと奥の怪しい扉からすぐに雲中子が出てきた。
「うちの子はどうしたんだい?」
 開口一番、雷震子のこと。
(なにさ雷震子のやつ、結局なんだかんだ言って仲良いんさ)
「帰って来ないさ、今日から俺っちがここの子!」
 少し拗ねつつそう答えた天化を気にする様子も無く雲中子は何やら手にしたビーカーの中身をカップに注いだ。
「そうなの?ま、研究が出来たらなんだっていいよ。じゃあこれ飲んでくれる?」
「い、嫌さ!!」
「冗談だってば。ゆっくりして行きなさい」


 ――そして最後に、青峯山は紫陽洞……

「天化ーっ!天化ぁーー!!」
 黄巾力士を天化に取られたので飛べない道徳はその背を追いかけることもできず、半泣きでただ名を呼んでいた。
「………」
 その背後で呆れているのは哪吒。必死な道徳は来訪者に全く気がついていないらしい。
(……親バカ……)
「おい」
「わぁ!!な、哪吒……くん?」
 本当にそれでも十二仙かと言いたくなるほど情けない声を上げる道徳。
「あいつなら帰らない」
「ええっ!」
「雲中子の所だ」
「ええええええーーっ!!」


***


「太乙さん、アイツを追い出したって本当かよ?」
「あ……うん」
 夕食を食べながら雷震子は向かいに座る太乙にそう切り出した。
「いいんじゃねえの?アイツいっつもああだし、たまには太乙さんも怒るんだってとこ見せれば」
「うん、確かにそうかもね」
 雷震子の言うことは最もだ。太乙は苦笑する。いつまでも親バカではいられない。厳しくすることもたまには大切だろう。 「それよりこれ美味いな!」
「えっ本当かい!?もっと食べる?」
 怪しい薬が入っていないか気をつけなくてもいい食事に雷震子は大喜びだ。太乙もこんなに美味しそうに自分の料理を食べてもらえることがないのでつい嬉しくなる。
「はい、おかわりどーぞ」
「サンキュー!」


***


「雲中子さん、この瓶さ?」
「ああ、それであってるよ、いいこいいこ」
「へへ」
 一方、天化は雲中子と案外仲良くやっていた。
「あ、ごめん天化くん。これもお願いするよ」
「了解さ」
 差し出された薬品の名前が書かれた紙を受け取る。薬剤室には几帳面にラベルが貼られた瓶が所狭しと並んでいて、天化にはまるで縁のない場所だ。
「うーんと……あ、これさ」
「済まないが天化くん、それが見つかったら夕食の準備をお願いしてもいいかな?」
「もちろんさ!うちでは飯は俺っちの仕事だから朝飯前さ!」
「ありがとう」
 雷震子とは違って素直に手伝いをしてくれる天化に雲中子は満足げだった。おかげで研究に没頭できる。
「道徳の教育の賜物かな?」


***


「違う違う!もっと脇を閉めて……そう!」
「ム……」
 哪吒と道徳は天化の心配したとおり、夕食の準備もせずに2人で永遠に修行をしていた。
「君は筋がいいね!宝貝を使いこなすことももちろんだけど、自分自身を鍛えることも大切なんだぞ!」
「そうだな」
 一理あると哪吒は頷く。こういうのもたまには悪くない。
「じゃあその風火輪を外して!ランニングしよう!」
「……ム」
 生まれた時から風火輪があり、自分の足でほとんど歩いたことのない哪吒にとってそれは驚きの提案だったが、言われたとおり外してみる。ひやりとした地面の感触が足の裏に伝わってきた。
「走れそうかい?」
 小さく頷いた哪吒を見て道徳は微笑むと先に走り出した。青峯山を一周する気らしい。慌てて哪吒も追いかけるが足が縺れて転ばないようにするので精一杯だ。その間にも道徳はどんどん小さくなって行く。
「ま、待て!」
「置いてくぞー!」


***


 その夜、雷震子は哪吒のベッドに潜り込みつつ終南山の夢を見ていた。

 …….これは、まだ仙人界に来たばかりの頃のオレ様だ。肌が黒くない。この頃は毎日厳しい修行でボロボロになって辛かった。そんなある日、本当に嫌になって、真夜中に洞府から逃げ出したんだ。
 怪しい植物とか生えてて怖かったけどとにかくもう家に帰りたかった。親父や兄貴に会いたくて仕方なかった。でもここは人間界から遥か上空の仙人界。それこそ翼でもない限り家になど帰れない。オレ様は終南山の端から遠い故郷を見下ろして夜を明かした。寂しくてちょっと泣いてたかもしんねえ。
 逃げ出したことがバレたらあのドSに今度こそ死ぬまで虐められるかも……そんなことを思いながらぼんやりしていると不意に背後でガサガサと草を掻き分ける音がして雲中子が現れた。
 何か言われた気もするけど、覚えてない。雲中子は確かに口を動かしてるのに、聞き取れない。夢ってこういうものだよな。
 駆け寄ってきた雲中子に抱きしめられた。これは都合のいい夢なのか、覚えてないだけで昔確かにあったことなのか。


「…夢……」
「おはよう雷震子、きみ寝言言ってたよ」
「んなっ!!」
 慌てて雷震子が飛び起きると太乙は冗談だと笑った。雷震子にとっては冗談じゃない。家出して来ておいて、もし寝言で師匠の名を呼んだりしていたら恥だ。
「ご飯できてるよ、顔洗っておいで」
「わかった!」


***


 天化の朝は早い。いつも道徳と朝練をしているからだ。
「あー……早く起きすぎたさ」
 まだ日も登り切っていない。だが二度寝する気にもなれず、朝食の用意をすることにして廊下に出た。
「あれ、雲中子さん?」
 ふと窓を見ると雲中子が洞府の外でぼんやり空を見上げているのが見えた。
「まだこんな時間なのに、なにしてるさ……あ」
 雷震子を待っているのか。
「師父も……俺っちのこと待ってるかな……」
「天化くん、起きたのかい」
 いつの間にか室内に戻ってきていた雲中子が自然な手つきで天化の頭を撫でる。
「あ、おはようさ……」
「なんだい?」
「いや……」
 天化は昨日から雲中子のこういう無意識らしい行動が気になっていた。ごく自然に頭を撫でたり、「いいこ」だと褒めたり、小腹が空いたのを見計らって甘い菓子をくれたり、寝る時には電気を消してくれたり。
 他にもいろいろ、「小さな子供」にするようなことをたくさんしてくれた。もしかして普段からこういうことを雷震子にもやっているのか…?と。
 そうだとしたら……タイプは違うものの、太乙に負けぬ立派な親バカっぷりだ。
「雷震子、なんで気づいてないさ…」
「んーなにが?あ、朝ごはん食べない派だから天化くんだけ食べて」
「わかったさ」


***


 昨夜遅くまで修行をしていた青峯山の2人はすっかり眠りこけていた。だがあまりの空腹に道徳が目を覚ます。
「うーん今何時……」
 寝ぼけ眼で時計を見上げて、道徳は跳ね起きた。
「なっ、なんで起こしてくれないんだ天化!朝練の時間じゃないかっ!」
 そして勢いよく隣の布団にダイブすると天化とは違う小さい体に再び驚愕し、ようやく昨日のことを思い出す。
「わーっごめん哪吒くん!潰れてないかい!?」
「朝から騒がしいな」
 布団から這い出してきた哪吒は何事もなかったかのように首を鳴らした。
「それより、朝練?」
「や、その前にご飯にしよう!」
 腹が減った!と冷蔵庫を漁る道徳。
「俺は料理とか下手なんだけど、哪吒くんも……あんまり作ったりしないよなぁ」
 道徳は早々に諦めてキャベツをそのまま食べ出した。

「よーっし、朝練するか!」
「何をするんだ」
 適当すぎる朝食を終え、2人は洞府の外にいた。今日も哪吒は裸足で、まだ若干ヒョコヒョコしているものの大分自分の足で歩くことに慣れてきたようだ。
「朝は手合わせ!」
 それを聞いて哪吒の瞳が少しだけ輝いたが、道徳は気付かなかった。太乙は肉弾戦が苦手なのでこんな風に相手をしてくれたことなど一度もない。
「天化は、いいな」
「え、何がだい?」
「なんでもない」


***


 洞府を交換してから2日目、雷震子は太乙が作った宝貝の試作品で遊んでいるうちにあっという間に夕方になってしまった。
「ここにいると一日がはえーな!」
「私も君がいると助かるよ、ありがとう。あ、その宝貝はどうだった?」
「んー……もうちょっと軽い方が扱いやすいかな?」
 楽しげにしつつ2人ともどこか上の空だ。雷震子は宝貝を太乙に手渡して遠くに暮れていく夕陽を見つめる。
「雲中子とはどうして喧嘩したんだ?」
「どうしてもこうしてもねえ、またオレ様を怪しい薬の実験体にしようとしやがって……」
 苦々しく吐き捨てる雷震子に太乙は苦笑いした。
「あー、あいつは困ったやつだね」
 実は結構な弟子煩悩である雲中子なのだが、あまりの不器用さ故に普通のコミュニケーションが取れないのだ。つまり照れ屋であるとも言える。太乙はそのことを知っているからなんともコメントし難い。
「でも、気になるんでしょ?」
「う…、天化の野郎が心配だからな!そういうあんたもそうなんだろ!?」
「うん。私が追い出したのに、今頃どうしてるのか心配で仕方ないよ」
 素直に認める太乙に雷震子は唇を尖らせる。
(哪吒はいいよなぁ……)
 そんな雷震子の心中など露知らず、太乙はため息をついた。
「ラボを壊されたくらいじゃ私も怒らないけどさ、あの時は哪吒にあげる宝貝を作ってたんだよ」
「あんた、哪吒のことになるとすぐムキになるよな。たとえその相手が哪吒でも」
「あはは……」
 ここまでくると親バカなのかただのバカなのかわからない。雷震子は流石に呆れ顔になる。
「哪吒、早く帰って来ないかな……」


***


 玉柱洞では天化が爆発した実験室から這い出てきた雲中子を介抱していた。
「ううーん……」
「雲中子さん大丈夫さ?」
 すっかり伸びている雲中子に声をかけつつ部屋を片付ける。危なそうな液体には触れないように。すると机の上に置かれた写真が目に入った。
「ん、なにさ、これ……絵?」
 太乙の発明品のカメラで撮ったものだが、天化はそんなこと知るはずもない。だがそこに写っている人物はよく知っている。
「師父……」
 道徳と太乙と雲中子、そしてまだ幼い天化。
「師父、ちっとも変わってねえさ」
 ヒラリと写真立てからそれが抜け落ちて拾い上げる。裏には何やらメモ書きがあった。
『道徳弟子をお披露目 可愛がり過ぎでこの先が心配』
 たったそれだけだったが、胸が熱くなった。今と少しも変わらないジャージ姿の道徳にキョトンとした顔で抱かれている自分。
「あーた、そこ、変わるさ」
 幼い自分に嫉妬して、しかし嬉しそうに微笑む天化。そろそろ戻そうとして写真立てを手に取ると、裏に入れられていたもう一枚の写真に気付く。
「あれ?これ……」
 肌の色は違うが、間違いなく雷震子だ。雲中子が起きないか確認してからそっとそれを抜き取り、裏を見る。
『私も弟子を取ることになった しっかりとした仙人に育てられるだろうか』
 飄々とした雲中子でも不安になることがあるのか。と天化は驚いた。そして今度こそ元に戻そうと写真を持ち直して指の下に隠れて見えなかった文字を発見する。
『可愛いものだ』
「……雲中子さん、やっぱり親バカさ」
「天化くん、何してるのかなぁ?」
「ぎゃーーーっ!!」


***


「いやあ、遊んだね!」
「まだ戦える」
「休憩休憩!」
 地面に横たわって気持ち良さそうに汗を拭う道徳と、その横に立ってまだ戦いたいと不満げな哪吒。
「それより哪吒くん!そろそろ帰らなくてもいいのかい?」
「いい、どうせ待ってない」
「そんなわけないだろう。どうしてそう思うのかなぁ」
 起き上がって座った道徳が哪吒に座るよう促す。哪吒も素直に座り、慣れない修行で疲れた体を軽く伸ばした。
「どうして太乙を怒らせたんだ?」
「ラボを壊した」
「それはどうして?」
 真っ直ぐ見つめてくる道徳の純粋な瞳に居心地が悪くなって哪吒は視線を逸らす。
「あいつ、この頃研究ばかりだ」
 太乙が哪吒のために新しい宝貝を作ろうとしていることを知っている道徳はああ、と頷いた。
「ずっと寝ないし、なにも食べない」
「哪吒くん……そういう時は「心配だから休憩しろ」って言ってやればいいんだ!」
「心配なんかしてない」
 道徳はガクリと肩を落とした。全く、このあまのじゃくときたら…。
「天化はどうして出て行ったんだ」
「ものすごくくだらないことで言い合いになって、つい思ってもないことを言ってしまったんだ」
 もうキッカケは何だったのかさえ覚えてないほどくだらない喧嘩。箸の持ち方だったか、パンツを放置したことだったか。
 そんな喧嘩くらいなら日常茶飯事なのだが、その時は道徳の機嫌が悪く、所謂「言ってはならないこと」をネチネチと言いまくってしまったのだ。「武成王みたいになれないぞ」とか、「俺より弱いくせに」とか。
 そうすると天化もどんどんムキになって、果てには理由も忘れてもはや単なる大喧嘩。何をくだらないことで、と冷静になってから追いかけてもその姿はどこにもなく。
「あんなに天化を怒らせたのって初めてだ…」
「お前が悪いな」
「うぐっ」
 哪吒の一言に道徳は果てしなく落ち込む。
「でも、帰ってくる」
 それは断言だった。証拠は無いが、確信があった。
「天化はお前のことを心配していた」
 その言葉に道徳は顔を上げる。
「連れて行ってやらないこともない」
 立ち上がり哪吒は手を差し出した。


***


「送るよ、雷震子」
 ついでに青峯山に寄って、哪吒を連れて帰る。と言い太乙は黄巾力士に乗り込んだ。
「仕方ねえな…まあ楽しかったからいいけどよ」
「またいつでも遊びにおいで」


***


 ――そして終南山……

「俺っち何も見てねえさ!」
「私が親バカだとかなんだとか、言ってたよねえ?」
 怪しい液体の入った試験管を両手に追ってくる雲中子。必死に逃げるのは天化。
「あっあーたなんでそんなに足速いんさ!」
「足の速くなる杏を食べたからだよ」
「冗談か本気かわからねえさーっ!」
 追いついた雲中子が天化を捕まえて試験管の中身を掛けようとする。
「うわーーっ!!」
「大丈夫大丈夫、ここ2.3日の記憶が曖昧になるだけだから」
「全然大丈夫じゃないさ!!」
 もうダメだと天化が目を瞑った瞬間、道徳の声が聞こえた。
「雲中子!やめろ!!」
「え」
 驚いて目を開くと真っ青な液体を頭から被った道徳が天化を守るように立っていた。
「コー…チ……師父っ!!」
「甘っ!!」
「ええ!?」
 一瞬慌てた天化だったが、道徳の叫びに頭から崩れ落ちる。
「つまんないな、道徳」
「ただの砂糖水か?これ」
 雲中子のイタズラに地に伏せたままの天化は肩を震わせ(こ、怖かったんさ……)と胸中で泣いた。
「天化、大丈夫か?」
 そう尋ねつつ道徳が手を差し伸べると天化は素直にその手を取った。
「……師父のおかげで転んだだけで済んださ」
 嫌味を言いながら、少し照れたようにその手をキュ、と握り締める。もう怒ってないと込めながら。
 少し遅れて来た哪吒がそこに着くと、丁度雷震子と太乙もやってきた。終南山に着いてから道徳がまたランニングだと言い出したので二人で走ってきたのだが、途中で天化の悲鳴を聞いた道徳が猛ダッシュで消え去り、置いていかれたのだ。
「哪吒!?風火輪はどうしたんだ!?」
 そんな哪吒に太乙は大慌てで駆け寄った。
「?ちゃんと持っている」
 両手に持った風火輪を太乙に見せながら哪吒は道徳を見た。すっかり仲直りしたようで天化と楽しげに話している。
「哪吒おめー、歩けたんだな!」
「黙れ」
 雷震子を乾坤拳で吹き飛ばしてから哪吒は太乙を見た。
「何しにきた、太乙真人」
「迎えに来たんだよ、帰ろう哪吒」
「…怒ってないのか」
 モチロン、と笑う太乙に自分でも気付かず哪吒はホッとしていた。
「お、雷震子じゃないか。帰ってきたんだな。じゃあ天化、そろそろ俺たちも帰るか!」
「そうさね、どうもお世話になったさ雲中子さん」
「はい、またね」
 黄巾力士に乗り込んで帰っていく道徳と天化を見送り、哪吒と太乙も飛び上がった。
「じゃあね雷震子くん、今度は普通にお泊まりにおいで」
「おう!」


 皆それぞれの洞府に帰り一気に静かになったので、雷震子もそそくさと洞府に入ろうとした。だが雲中子に腕を掴まれて立ち止まる。
「なっ、なんだよ」
「勝手に見えないところに行くんじゃない」
「え…」
「どれだけ心配したと思っているのかな、君は」

『どれだけ心配したと思っているのかな、君は…』

 幼い時の朧げな記憶が色味を帯びていくのを感じた。あの時の言葉。額に汗を浮かべ、息を切らした雲中子。そして…ふわりと包み込まれる。薬品の香り。
「な…んだよ…」
「ふふ、雷震子も同じ夢を見た気がしたんだよねえ」
「ンなわけあるかっ…」

「あー、なんだか疲れたよ」
「天化のヤローと楽しそうにしてたじゃねえか」
「え、楽しそうに見えた?」
「違うのかよ」
「無理無理、よその子には気使っちゃって」
「オレ様にも気ィ使えっての」
「それは無理だねぇ」


***


「いやー、噂と違って哪吒くんは素直で可愛かったぞ!天化のちっちゃい頃みたいでな!」
「ちっちゃい頃と言えば、雲中子さんのとこで不思議な絵を見たさ」
 ランニングしながら帰ってきた2人は汗をタオルで拭きながら話していた。
「え、もしかして……」
「なんか師父たちとちっちゃい俺っちが描かれてたさ。裏には雲中子さんがなんか書いてて…」
「わーーー!!」
 道徳は顔を真っ赤にして天化を突き飛ばすと布団に潜り込む。
「な、何さ師父!風呂入んねぇと風邪ひくさ」
「駄目だぞ天化!いくらお前の頼みでも…!!」

「な、何の事さ?もしかしてなんかあったとか…」
「えっ、アレは書いてなかったのか?」
(写真は貴重な物だと渋る太乙にどうしてもと強請(ねだ)って、天化だけを撮った一枚をもらったのだ。それは今も俺の懐にある…)
「可愛がりすぎだって書いてあったさ」
「そ、それだけなら良かった…」
「なんなんさ!」
「言えるかばか!」
「何さ親バカ!」


***


「哪吒、道徳のとこはどうだった?」
「別に」
 乾元山に着き、黄巾力士を置いて洞府へ向かいながら太乙が話しかけた。
「ねえ哪吒、降りてきて一緒に歩こうよ」
「疲れた」
「ならおんぶしてあげようか?」
「いらん」
 ちっともつれないが、慣れたものだ。それに、こうして並んでくれるだけでも珍しいほどに幸運な事である。太乙は哪吒の冷たい態度を気にもせずニコニコと歩き続ける。
「太乙真人」
「ん?」
 洞府に着き、扉を開けた太乙を哪吒が呼び止めた。
「オレがラボを壊したのは、心配だったからだ。お前が、何日もずっと閉じこもってるから」
「な、なたくぅ……!!」
 振り返った太乙はみるみる満面の笑顔になって哪吒に飛びついた。だが哪吒はそれをヒョイと避け、太乙は空を抱く。
「そこは避けるなよ!私の熱い抱擁を受け止めろよ!」
「ばかが」
 呆れつつ哪吒が先に洞府に入ると机の上には見慣れない宝貝があった。
「哪吒がラボを襲撃したせいで完成が1日遅れちゃったんだぞ!」
「これ…」
「そ!お前の新しい宝貝!微調整は雷震子くんにも手伝ってもらったんだ」
 今度お礼を言っておくんだぞ?と付け足す太乙を尻目に返事もせずその宝貝を持ち上げる。ズシ、と手に馴染む丁度いい重さのそれは哪吒の心を踊らせた。さっそく明日にでも雷震子と戦ってみよう。
「ね、どうどう?」
「悪くない」
 後ろから抱きつかれて子供のように頭をクシャクシャと撫でられても、今度は逃げなかった。

▼【色物三弟子】花屋、郵便屋、浪人生

 何やらガンガンと騒がしい音でふと目が覚めた。東側の隣の住人、雷震子が何か騒いでいるらしい。
「おいうるさいぞ郵便屋、壁が薄いんだから静かにしろ」
 布団から起き上がって東側の壁に向かいそう言うと、ドダダと走る音が聞こえて目の前の壁がバンッと鳴った。
「ム……一体なんだ」
「花屋!玄関ドアが開かねぇ、助けてくれっ!」
「はぁ?」
 訳がわからないが、朝から意味の分からない冗談というわけでも無いだろう。オレは仕方なく立ち上がった。
「こっちから確認する。少し待て」
 面倒だな、と呟きながら玄関に向かう。ドアノブを捻ってそのまま体重をかけ、前に押した……が、開かない。
「ム?」
 落ち着いてもう一度ドアノブを回す。開かない。一応引いてももちろん開かない。押し戸であることはもう何年もこのボロアパートに住んで知っている。
「……なんなんだ」
 当たり前だが鍵は開いている。どうしようもなくオレはとにかく部屋に戻った。
「おい郵便屋」
「早く開けろよ……まさかお前も開かないとか言わないでくれよ……」
「ああ。開かない」
「…………!……っ!」
 郵便屋の絶望が壁越しに面白いほど伝わってくる。今頃時計と電話を交互に見ては頭を抱えてどうしようか悩んでいる事だろう。
 とりあえず今のところオレは時間的には問題無いが、このまま開かないのはさすがにまずい。更に隣に助けを求めよう、と西側の壁をゴンゴンと叩き、反応を見る。
「…………」
 再びノックする。
「おい」
 音沙汰なし。まだ寝ているのか?
「おい起きろニート」
「ニートじゃねぇさ!!」
 ダダダダッと明らかに苛立っているノックが返ってきた。東も西も、朝から元気な奴らだ。
「おい天化!テメー起きてんじゃねえか!」
「あーたらがうるせぇから起きたんさ!俺っちも開かねえ、諦めて寝てろさ!」
 後ろの壁から「まじかよぉおお」と悲鳴が聞こえてくる。プライバシーもへったくれもないアパートだ。
「ああ!そうだ花屋!ベランダから下に脱出しろ!」
 名案だと言わん限りに明るい声で郵便屋が言う。ふざけるな。
「いやだ。大家に怒られる。急いでるなら自分でいけ」
「高所恐怖症なんだよ……なんかほら、雷とか書いてある翼でもあったらなぁって思わねえ?」
「一体キサマは何を言ってるんだ」
 情けないやつだ。諦めて二度寝でもしてろ。
「相手に閉じ込められたから出られねぇって連絡すればいいさ」
「こんな朝早くに配達人の代わりなんていねぇだろおー……」
 出来ない事は出来ないんだからどうしようも無いというのに、こいつはまだオレがベランダからハリウッドスターの如くスタントごっこをしてくれるとでも思っているのか?
「はー、とりあえず扉が開かない理由を考えるさ」
 鮮明に聞こえた声に振り返ると以前開けてしまった穴から浪人が覗いていた。
「キサマ、覗くな。せっかく布で隠したんだ」
「早いとこ修理しろさ。まぁいいじゃねえか、顔が見えた方が意思の疎通が図りやすいし!おい郵便屋、理由に心当たりねえんさ?」
 浪人につられて一緒に東側の壁を見やる。
「わかんねぇよ、ビクともしねぇんだから」
「「使えねー」」
 ハモってしまって睨み合った。
「じゃあ花屋はどうなんさ?」
「ム……寝てる間に地震が起きて、扉が歪んだ」
 実際のところ、地震が来たらこのアパートは歪むどころか崩れるだろうがな。なにしろ軽くぶつかっただけで壁に穴が空く程だ。
「適当言えばいいってもんじゃねえさ」
「さっきからやいニート、お前はわかんのかよ!!」
「何か考えがあるのか」
 偉そうな浪人の鼻を指で弾こうとするとヒョイと顔が穴から離れて行った。急いで布を貼り直す。
「……わかるような気もするけど、もしこれが正解ならわかったところでどうしようもなくて、まじで誰かがベランダから脱出をするしかないさ。ま、この面子の中で1番切羽詰まってるのは……東の端……さ」
 別に何が言いたいわけじゃないけどさ!とわざとらしくにやけた笑い声が前から、そして背後からは唸り声が聞こえてくる。
「ううう、頼むよお前ら、本当に怖いんだって!昔ヒーローごっこして高いところから落ちたんだよ!!」
「恥ずかしい過去を暴露しても同情はしないぞ」
「おーい花屋、これ見るさ」
 浪人が貼り直した布を突き破って、今度は穴から一冊の本を出して来た。猫特集だ。
「……こんなものをどこで手に入れた」
「へへ、朝から刺激的過ぎるさ?」
 わざと大きな声で浪人と共に興奮気味に話すと後ろの壁がドンドンと鳴り出した。
「早く次のページも見せろ」
「でっへっへっへ」
「おい!おいこら何見てんだよ!!アホども!!」
 郵便屋から罵倒が飛んだところでオレたちはピタリと黙った。浪人が本をポイと投げ部屋に引っ込む。
「猫特集だ。何を勘違いしている」
「あーあーあー、浪人生にアホだとか言うさ?……俺っち傷ついちゃったさ」
「なっ!はっ、ちが、てめぇら、どっちがベタなんだよ!古い手使いやがって!!」
 すぐムキになるからからかわれるのに。と思いつつオレは本を拾ってまた読みはじめた。
「おい、おい!おーーい!」
 東側の壁は相変わらず騒がしい。
「なんだポストマン」
「なんだよポストマンって!なんかわかんねえけど嫌だぞ!!」
 西側からはまた顔が生えて来た。
「てか仕事?……なら、もう間に合わないさ郵便屋。諦めて寝るさ」
「まだ、まだ間に合う!ダッシュすれば間に合う!」
「じゃあまずベランダからジャンピングさ」
「そしてBダッシュだな。ここから応援してやる」
 また向こう側からドタンドタンとのたうつ音が聞こえてくる。ヤツの学習能力はゼロだ。何を言ったってオレたちはこう返すのに。
「おいニート!開かない理由ってなんなんだよ!心当たりあるんだろ!」
「ニートじゃねえっつってんさお偉い公務員さまよお?」
 人の部屋を挟んで口喧嘩とは……どうにも変な図だが、面倒なので放置する。
「理由を教えろって!こら!」
「心当たりってだけなんだから理由とは限らねえさ」
「いいから言ってみろ!何かが進展するかもだろ!」
 すると浪人がオレを見た。
「ム」
 首を傾げてみせると浪人はため息をついたあと答えた。
「昨日の夜さ、俺っちが帰ってきた時ドアの前にやたらでかい木の板が置いてあったろ」
「オレ様は知らねえ、なんだそれ」
「ああオレだ。花を置く台でも作ろうかと」
 思わず手を上げて名乗り出る。浪人はふーんと言って続けた。郵便屋はいつも早寝だからオレがあれを持って帰ってきたのを知らなかったのだろう。
「あれな、俺っち……倒しちまったんだよなぁ」
 罰が悪そうに浪人はそれだけ言って引っ込む。オレは穴に布を貼り直す。
「そうか……ん、じゃあ……」
 あ、と振り返るとひとり状況のわかっていないらしい郵便屋が声を荒げた。
「だから何だよ!!分かりやすく言いやがれ!!」
「ぴったりハマったんじゃないか」
「あの板の横幅、ここの廊下にピッタリだったさ」
 それなら確かにどうしようもない。微塵もドアは開かないわけで、内側から退けることが出来ないのだから。
「大家さんに連絡して来てもらっても、あんなでかいのあのお婆ちゃんには動かせないと思うさ」
 オレでも運ぶのに四苦八苦したあの板と腰の曲がった大家の姿を思い出して無理だ、呟く。
「不動産はまだ営業してねぇ時間だしさ」
 浪人の言葉に頷く。
「他に助けを呼べるやつはいるか」
「いないさ!予備校仲間はみんな夜更かししてどうせ今寝付いた辺りさ、電話したってどうせ起きねえさ」
 そうだろうな。オレの知り合いもそうだ。東側の壁が沈黙しているのが気になるが尋ねてみる。
「お前は?郵便屋」
「…………うう……あああ」
「だめそうだな」
「諦めろ!俺っちはもう寝るさ!」
 オレもまだ出勤まで時間があるし、二度寝したい。郵便屋は不憫だが、布団に潜り込む。
「よしお前ら……オレ様はベランダから降りてくれたやつに5000払うぞ!」
「まだ諦めてなかったのか」
「1万!」
 バッと再び壁から浪人が飛び出して来た。現金なやつだ。
「はぁー?じゃあ7000」
「8000!」
「7500」
「やらねーぞ!スタント!!」
「わかったよ、8000な」
 一気にやる気になった浪人はドタバタとベランダへ走って行った。少し気になって壁から覗く。
「おいどうだ?ニートの野郎は」
「するする降りて行った。心配なさそうだ」
 そんなに簡単に降りれるなら早くやってやればよかったのに、と思う。
 ……いや、わざと金の話が出るまで引っ張ったのか?


 ***


 遅い。

 遅すぎる。あの板は確かに重かった。それにしてもあれを退かすのにこんなに時間がかかるわけがない。もしかしてギッチリハマっているのか?いや、それなら助けを求めるだろう。ドアの向こうから声は聞こえてこない。
「おい3浪、大丈夫か?」
 玄関に近付いてそう声を掛ける。返事はない。
「いつもの『まだ2浪さ!3浪とか言うな、本当になっちまうさ!!』がないな」
「似てないからやめた方がいいぞ、それ」
 郵便屋も玄関に来ていたらしい。似ていないモノマネを壁越しに披露されたこっちはどうしたらいいんだ。
「おい、浪人!早くしてくれよ!」
「おい、何かあったのか」
 ………。
 …………。
 待てど暮らせど返事はない。
「……郵の字」
「何だ花の」
「オレが思うに、彼奴はこの扉の向こうにはいな」
「それ以上言うな!おーい!返事しろバカ浪人!」
 オレの言葉を遮って郵便屋が叫ぶ。なんとなくオレは洋画の吹き替え風に返した。
「よせ郵便屋、オレたちは……見捨てられたんだ」
「帰って来てくれー!!」
「叫ぶな、体力がもったいない。ただじっと助けを待つのがいい……」
「だっまっれっよてめぇはさっきから!!ああ!?サバイバル映画じゃねぇんだよ!オレ様は真剣なんだから茶化すなこの野郎!頭ん中まで花が生えやがったか!?」
 案の定怒られたが、少し楽しかった。飽きてドアから離れてベランダに向かう。にしても、あの浪人は何をしているのか。道路を見下ろしてみてもその姿は無い……と思ったが、表に回る角の辺りで何やら揉めているようだった。
「あ」
 すると郵便屋もベランダに出てきた。
「いねぇじゃねえか!!」
「あそこにいるぞ」
 曲がり角を指すと郵便屋は怒りを露わに怒鳴り散らす。
「何してんだこらてめぇー!!!5浪する呪いを掛けてやろうか!!」
「オレたちには受験生に対する遠慮や励ましという気持ちが微塵も無いな」
 そんなことを言っているとヒョコッと顔を出したのは警察官だった。
「ん、警察?」
「ふ……、最悪なタイミングで捕まったな。ああ、そいつは本当にここの住人だ!ドアが開かなくて!」
 横で郵便屋が今にも警察官に罵詈雑言を浴びせそうな勢いでキレているが、オレが説明してやると案外すぐ浪人は解放された。そしてドアの前が少し騒がしくなってまた静かになる。
「おーい、開けたさ」
「ご苦労」
「おせぇよ!!!」
 労いの言葉を掛けつつドアを開けると郵便屋が飛び出して行った。
「1万はー?」
「8000だろうが!帰ったら払ってやる!!」
 ガシャガシャと自転車で慌てて去って行く背中を見送った後、オレと浪人はそれぞれの部屋に戻った。
「なんだったんだ、さっきのは」
「朝っぱらからいろいろあったさ」
「いろいろあった……のか?」
「あったさ」
「あったか」
 壁を挟んで普通に会話をする。
「俺っちまた寝るさ」
「ん。オレはそろそろ飯を食って仕事に行く」
 話しながら布団を畳み、朝食のパンをトースターに放り込んだ。
「大変だな、社会人は」
「気楽だな、学生は」
「受験生だっての」
 バッと穴から覗いて来た顔を小突いて歯ブラシを取る。
「どうでもいいけどさ、郵便屋昨日の朝『明日は珍しく休みなんだ』って嬉しそうに言ってなかったさ?」
「ああ。オレも思っていた」
 その瞬間ドタドタと足音が聞こえて来て突然ドアが開けられた。
「言えよてめぇら馬鹿野郎!!」
「勝手に入ってくるな郵便屋、不法侵入だぞ」

▼【雷と哪】終南山と乾元山

 ここは平和な乾元山は金光洞。太乙真人と哪吒が過ごす洞府の朝……

「なんっじゃ、こりゃー!!!」
 およそ哪吒があげないであろう叫び声が寝室から響き渡り、研究室で寝落ちしていた太乙は夢かと一瞬自分を疑った。
「な…哪吒?」
 おそるおそる哪吒の寝室を覗くと、鏡の前で仁王立ちしていた哪吒(?)がバッと太乙を見た。
「太乙さん…やっぱりここは、乾元山…?じゃあこの体は、哪吒…!?」
 普通の哪吒なら一生見せないであろう感情豊かな表情が真っ青になったり、冷や汗をかいたりする様子を太乙はどこか非現実的な気分で観察していた。
「あのー…その様子じゃ、君は哪吒じゃないね?」
 なんじゃこりゃ、などという第一声と、こんな事を起こしそうな人物から大体予想は出来るが、太乙はあえて尋ねた。
「どちらさまですか?」
「ら、雷震子…っす」
 やっぱり…と太乙は頭を抱える。
「また雲中子に何かされたんだね?」
「寝てたからわからねぇ…あの野郎…」
 単純に考えれば、雷震子の中に哪吒の意識があるはずだ。そちらの様子ももちろん気になるが、太乙はそれ以上にコロコロ変わる哪吒の表情を興味深く観察することを止められなかった。
「あの、太乙さん?」
「あっいや、ごめんごめん!哪吒っていっつも無表情だからさ、そんな風に焦ったり怒ったりしてるのが物珍しくて」
「面白がってる場合じゃねえよ!くっそぉ、雲中子の野郎…まじでブッ殺す!飛べるやつに入れ替わってラッキーだったぜ!」
 ブチギレながら哪吒…いや、雷震子が飛び上がると、馴れない身体と宝具に加減を誤ったようで、天井をぶち破ってあらぬ方向へぐるぐる飛んでいった。
「あっなた…じゃないか、雷震子くん!…もう遅いね」
「うわぁぁああ!!」


 所変わってここは終南山は玉柱洞。雲中子と雷震子が住まう地……

「……なんだ、これは」
 寝転んだまま、浅黒い手のひらをまじまじと見つめる。目がおかしくなったのか。いや、それより俺はいつの間に乾坤拳を外した?気付くと風火輪も混天綾もない。履いているのは普通のズボンだ。そして起き上がろうとすると背中にズシリと重みを感じた。
「っ…?」
 振り返ると見覚えのある6枚の黒い翼。確かこれは…
「天騒翼」
 試しに動かしてみる。それは手足のように言う事を聞いた。起き上がる際には重く感じたが、立ち上がってみるとそれはまるで風のように軽い。
「やあ起きたかい雷震子!」
 非常に楽しそうに飛び込んできた雲中子を見て雷震子…ならぬ、哪吒は特に驚いた様子もなく口を開いた。
「またキサマか」
「え?なんのことかな」
「こうするのか」
「発雷」
 哪吒は右の翼に意識を送り、容赦のない電撃を雲中子目掛けて放った。
「わああ!流石だ哪吒くん、もう天騒翼を使いこなしているのかい!?」
 次々に放たれる雷撃を避けながら雲中子は楽しげに騒いでいる。
「悪くない宝具だ。だが用が済んだならオレを元に戻せ」
 哪吒はつい乾坤拳がある気になって腕を構えるが、その軽さと腕の色に今の状況を思い出して舌打ちする。
「まだ済んでないよ!魂魄入れ替え実験の成果を試さなきゃ!ねえ、雷震子の体はどう?どこか不自由な部分はある?天騒翼の使い方は感覚でわかったのかな?」
「うざい」
「ぎゃーっ!!」
 哪吒はついに大風を起こし、洞府の壁や扉ごと雲中子を吹き飛ばした。壊れた壁から歩きだし、何度か翼を動かしてから哪吒は勢いよく飛び上がった。
「ふん…」


「げっ!てめぇ…哪吒か!?」
「その騒がしさは雷震子だな」
 空中で出会った2人は他人が見るとお互いに自分の名を呼び合うという、てんでちぐはぐな会話をしていた。
「雲中子の野郎、なんて言ってやがった!?」
「魂魄入れ替えの研究だと言っていた。いろいろ聞かれて鬱陶しいから吹き飛ばしてきた」
「魂魄入れ替えぇ!?じゃあ、例えば今オレ様がこの体で死んだらどうなるんだよ、オレ様の魂魄が封神されんのか!?」
「知らん。オレの体だ、勝手に死ぬな」
 至極真っ当な事を哪吒が突っ込む。雷震子は怒りと混乱で自分でも何を言っているのかよくわかっていない状態だ。
「どうしたら戻る」
「雲中子に聞くしかねぇ…畜生、今すぐブッコロしてやりてぇが…」
 玉柱洞に戻るぞ!と雷震子の姿をした哪吒を引っ張る、哪吒の姿をした雷震子。
「体の使い心地はどうだとか、宝具の使い方はどうやって分かったんだとか、色々聞いてきて鬱陶しいぞ」
「んなもん適当に答えりゃいいんだよ!そしたら満足して元に戻しやがるだろ!
 いや待てよ、不自由があるなんて言ったら、研究する余地が残ってるとか言ってまたアレコレされそうだな…おい哪吒!」
「なんだ」
「絶対に不満を言うなよ、魂魄入れ替えの術式は完璧だ、もう完成してるって答えろ!」
「こんな身勝手なことをされて何故ヤツを褒めねばならん」
「いいから言う事を聞けっつーんだ、バカ!」
 雷震子に小突かれて、哪吒は自分の体だというのに遠慮なく雷撃を落とした。
「ぐはっ…なんだこりゃ、痛くねぇ」
「所詮作り物の体だ」
「てめ…自分の体だろが、大事にしろよ!」
 片腕が吹き飛んだ雷震子は大怪我を負ったのに痛みのない奇妙さに鳥肌を立てる。
「いいから早く行くぞ!」
「お前が一人で行け」
「オレ様の体がねーと元に戻れねぇだろうが!」
「別々の場所にいたが入れ替えられただろう、別行動をしていても元に戻せるはずだ」
 オレは天騒翼を試してみたい。と言って哪吒はあらぬ方向へ飛んでいく。
「おいおい待て待て待て待て!テメーどこで何する気だコラ!!」
「宝具を試すだけだ」
 残った左手で雷震子は慌てて哪吒を捕まえる。
「テメーがあちこち壊してオレ様の評判が落ちたりしたらどうする!大人しくしてろ!雲中子にさっさと話つけて元に戻させんぞ!」
 哪吒は加減する気配もなく右翼に電撃を溜めた。
「げっ!!」
「発雷」
 特大の雷撃をギリギリで避けた雷震子は自分の宝具の威力を第三者視点で見て、雷公鞭にも負けないんじゃ…?と密かに自画自賛していた。
「じゃあ、お前が戦え。自分と戦える機会なんてそうそうない」
 雷震子が心の中で自画自賛してる内も哪吒は戦闘態勢を崩さない。
「ばっきゃろー!こっちは既に片腕がねえんだぞ!不利だろうが!」
「来ないならこっちから行くぞ」
「うわっ、やめろバカ!チクショー、乾坤拳!!」
 見様見真似で雷震子は乾坤拳を飛ばしたが、哪吒はそれをヒラリとかわし、すぐに雷震子へ雷撃を撃つ。
「わあ!ぎゃあ!おい待て!オレ様は乾坤拳しかねぇんだぞ!金磚も火尖鎗も九竜神火罩Ⅱだってねぇ!」
「オレの姿で間抜けな声を出すな」
「テメーこそ気持ち悪いんだよ!その能面をオレ様の顔に貼り付けるんじゃねぇ!」
 戻ってきた乾坤拳をすぐに哪吒へ放つが、無理な体制から慌てて飛ばした所で簡単には当たらない。
「ム…」
 哪吒は直線的に飛んでくる乾坤拳が非常に避けやすい事に眉を寄せた。
「乾坤拳は強くないのか?」
 生まれた時から身につけていた我が身のような宝具が、あまり強くないような気がしてきて哪吒はガッカリする。風火輪も乾坤拳も使い慣れていない雷震子が、空中で、更に片腕で操っているというハンデを全く考えていない。
「何ぼやいてんだコラ!」
「ム」
 すると、ぼんやりしていた隙を突いて雷震子が間近から乾坤拳を放ってきた。哪吒は咄嗟に避けようとしたが、ふと、太公望と初めて会ったときに風で乾坤拳の軌道を変えられた事を思い出し、あれを試そうと思ってしまった。
「起風」
 言わなければならない決まりでもあるのか、なんとなく技名を唱えながら哪吒は風を起こしてみたが、それをするには距離が近すぎた。
 乾坤拳は起こり始めた緩い風をものともせず真っ直ぐに飛んでくる。そしてそれは哪吒の右足にクリティカルヒットした。
「っく…」
「あー!!オレ様の足がぁ!!」
 哪吒は初めて感じる痛みという感覚に顔を歪ませた。痺れるような感覚に目の前がくらくらして、力を入れると更にズキンと痛む。血が伝っていく様子まで感じられて、これが痛みか、とどこか呑気な感想を抱いていた。
「こんな程度の怪我でこんな痛みを感じながらお前達は戦っていたのか」
「こんな程度じゃねえよ!完全に折れてるだろ!大怪我だっつーの!」
 またバイオキシンZを使われるー!と謎の叫びをあげる雷震子と、初めて味わう激痛に静かに耐える哪吒。
「もういい、一旦太乙さんとこに戻るぞ!雲中子に治療されてたまっか!太乙さんも普通の治療くらいできるだろ!」
「オレは知らん」
「いや待てよ、魂魄が入れ替わってる状態のままなら、バイオキシンZを使われても構わねーか…
 おい哪吒!やっぱこのまま終南山に行くぞ!それからあんまり怪我したトコを触んな!バイ菌が入るだろうが!」


 ぎゃあぎゃあと騒がしく(主に雷震子が騒いでいるのだが)終南山へ降り立った2人を待っていたのは雲中子と太乙だった。
「太乙真人、なぜここにいる」
「雲中子、テメー!!」
 2人がお互いの師匠に声をかける。するとそれぞれは反対に返事を返す。
「哪吒くん、その足どうしたんだい」
「雷震子!哪吒の腕をどこに落としてきちゃったんだ!?」
 すると哪吒と雷震子はお互いを指さし、こいつにやられたと答える。
「とにかく、修理しよう」
「これはすぐに治療しないと、さあ哪吒くんこっちにおいで」
 太乙は乗ってきたのであろう自分の黄巾力士からガチャガチャと工具を取り出すと忙しなく修理を始める。
「良かった、中身を戻されてから治療じゃなくて…」
「何か言ったかい?雷震子」
「いいから早く行けよバカヤロー!」
「まったく、あれが師匠に対する態度なのかって、ねぇ哪吒くん」
 今度こそ哪吒を連れて洞府に入って行った背中を見送り、雷震子はどはーっと息を吐く。
「雲中子の治療はそんなに酷いのかい?」
「ああ、治るっちゃ治るが…あの治療を受けるくらいなら自然治癒を望むぜ、オレ様は」
 にしても痛みがないってのは奇妙だな!と面白がる雷震子を尻目に、太乙は「哪吒、大丈夫かなぁ…」と上の空だった。


「さあこれを患部に乗っけて」
 治療台に乗せられた哪吒の目の前に差し出されたぐちょぐちょでべちゃべちゃな物体。なにやら動いているようにも見える。
「なんだこれは」
「バイオキシンZだ、生態治療器さ」
「見た目がわる」
 哪吒の言葉を最後まで聞くこともなく、雲中子は問答無用でバイオキシンZをべチャリと右足に乗せた。傷口に、足中に、ぬるぬるベトベトした感触が広がって哪吒は生まれて初めて鳥肌が立つという感覚を味わった。
「…今日は、初めてのことばかりだ」
 呻くように漏らした言葉は誰の耳にも届かなかった。


「さあ話を問題に戻すぞ雲中子!また勝手な研究にオレ様を巻き込みやがって!」
 修理が終わった雷震子が床で息絶えている哪吒を無視して雲中子に詰め寄る。
「まあそう怒るな雷震子!考えてもみろ、こうして魂魄の入れ替えが可能と分かったということはだな、入れ物さえあれば、魂魄を入れればその魂魄の持ち主の意志がその入れ物に宿るということだ」
「だからなんだってんでぃ」
 雲中子は大仰に手を伸ばし、スッと封神台を指さした。
「あそこに封神されている魂魄は、そのまま肉体を得られるということだよ!」
 雷震子はしばらく考えたあと、小さく「そりゃナシだろ」と呟いた。
「何がナシだ!お前の兄も、父も、その記憶を残したまま肉体を得られるのだぞ!?その体を扱ってみてどうだ?太乙なんぞを褒めるのは悔しいが、その肉体なら何不自由なく活動することができるであろう!太乙に肉体を大量生産させ、そこに封神された魂魄を入れこめば…戦いに破れ、封神された崑崙の仙道、正しき心を持った人々が、戻ってくると言うのだぞ!!」
 これぞまさに死者蘇生!と熱く語る雲中子に対して、他3人は苦い顔をしたままだ。
「……そりゃ、会いたいさ、親父にも、兄上にも…天化のヤロウだって、最終決戦を前に勝手に死んじまいやがって…けどよ」
 雷震子はポロポロと泣き出した。哪吒が小さく「オレの顔で勝手に泣くな」と文句を漏らす。
「けどよ…会いてぇけど……命ってのは、一回きりなんだ、雲中子…そんな、モノみてぇに何度も蘇生できたりしちまったら…いけねぇんだ」
「そうだよ雲中子、私はそんな研究の協力はしないからね」
「じゃあ、もしもあそこに哪吒の魂魄が封神されていたとしても同じ事が言えるのか?この親バカめ!」
「そ、それはぁ…」
 肉体(哪吒の場合は霊珠)を失った魂魄は神として、神界で永遠(とわ)を過ごし、人間界を見守っていく。もしもそれが哪吒だったら。
 太乙は深く深く考えて、重い口を開いた。
「わからないよ。本当にそうなってみないと。だけど…私も、今は雷震子と同じ考えだ」
 堅物どもめ。と悪態を吐いて雲中子は哪吒と雷震子の額に謎の電極を突き刺した。
「うわっ、なんだこれ!?」
「もういいよ、元に戻してやる」
 ガコンとブレーカーのようなものを雲中子が操作すると、哪吒が入っていたはずの雷震子の体がビクッと跳ねて大声をあげた。
「ぎゃー!!!気持ちわりぃ!!まだバイオキシンZがくっついてんじゃねえか!!」
「ム…」
 反して哪吒は自分の手をまじまじと観察し、何度か開いたり閉じたりして感触を試したあと、満足したように洞府から出て行った。
「雲中子、一応もう1度言っておくけど、私は協力しないからな!それと、私にさえ一言もなく勝手に哪吒を巻き込むのは禁止だ!」
 太乙はそう言い残して哪吒の後を追いかけた。
「……おい雲中子。こんな方法でどうやって昨晩、魂魄を入れ替えやがったんだ」
「象さえ3秒で眠りにつく睡眠薬があってね」
「発雷!!」